日本軍の米ハワイ真珠湾攻撃による日米開戦から8日で75年を迎える。今月末、安倍晋三首相が真珠湾を訪れ戦没者を追悼することが決まるなど、「特別な年になる」と思いを新たにしている人がいる。戦争末期に旧陸軍の特攻隊員となり、終戦後はシベリア抑留も経験した佐賀市の鳥谷邦武さん(90)だ。鳥谷さんは歴史の語り部として「特攻隊員には笑顔もあれば涙もあった。それぞれがあのとき抱いた本当の姿、思いを知ってほしい」と訴える。(大森貴弘)
鳥谷さんは昭和18年、16歳で大(た)刀(ち)洗(あらい)陸軍飛行学校(福岡県)に入った。20年3月に同期生らと特攻隊「第427振(しん)武(ぶ)隊」に配属されたが、旧満州(現・中国東北部)で出撃命令を待つ間に終戦を迎えた。
特攻隊員に選ばれたとき、上官に「志願者は一歩前へ!」と促された。「周りに同期もいる中で、一歩を踏み出さないという勇気はなかった」と振り返る。
両親に遺書を書くよう言われたが、白紙で送った。その理由について、「死にたくはなかった。怖いし、もっと生きていたい…。書けば、きりがないと思ったのです」と説明する。
同期の仲間が出撃前に見せた複雑な表情は今も鮮明に脳裏に焼き付いている。
「シバタ(隊員)は出撃前夜、『死にたくねぇな。こんなに訓練をやったのに全部、灰になってしまうなぁ』と嘆いていた」
「大石(隊員)は翼に座っていた。出撃を前に大石が普段着ていた服や歯ブラシを手渡すと、『ありがとう』とだけ。後はお互いに見つめ合うだけでした」
今も戦友の写真に目をやるたび「彼らが『死にたくない』と呼びかけてくる。でも、国や家族を守りたいという思いで戦ったのも嘘ではない。特攻にはそんな表と裏があるんです」。
自らも死ぬ覚悟を決めたが、やがて終戦を迎える。直後に、旧ソ連軍が踏み込んできた。「東京、ダモイ(帰国)」と貨車に乗せられたが、向かった先は西シベリアの収容所だった。
切り出した木材を運ぶなど、極寒の地での強制労働は過酷を極めた。まともな食事もほとんどなく、飢えをしのごうと思わず毒草を口にしたり、作業中に材木が直撃したりして戦友が次々と落命。木製スコップでは凍土を掘れず、やむなく雪をかけただけで弔った。
収容所には日本人抑留者が400人いた。鳥谷さんは復員するまでの2年間で20人近くの戦友を自らの手で埋葬した。まさに、想像を絶する日々だった。
15日には山口県で安倍首相とロシアのプーチン首相による日露首脳会談が開かれる。70年前の過酷な経験を思いだすと、どうしても歓迎する気持ちにはなれないが、「まずはシベリア抑留の悲劇をロシア人にも知ってほしい」と鳥谷さん。
安倍首相が今月26~27日に真珠湾を訪問することについて、「良い決断だ。時期が遅いとか早いとか言う人がいるが関係ない」と称賛。「謝罪をするとどちらが良い悪いの話になってしまう。素直に亡くなった人を慰霊するという気持ちがまず大事だ」と語り、「謝罪はしない」という政府の方針に理解を示した。
2016.12.7 産経
<👀も>
初霰降る。 暖かくしていて、風邪などひかないようにしよう。
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