八雲町~ヤクモチョウ
北海道地名由来史というカテゴリーを作ったのも、北海道の市町村のほとんどがアイヌ語をもとにしたと、第1回の札幌市での文面に記載しましたが、その一部で入植した和人が名付けた市町村も存在します。
道南の八雲町は、南に駅弁で有名なイカ飯の森町、北に かに飯の長万部(おしゃまんべ)町と、南北に名産の有名な町に挟まれてますが、この八雲町は、2005年 平成17年の平成の大合併により、日本海側の熊石町を吸収合併したことにより、太平洋と日本海に面した唯一の地方自治体となりました。
八雲町の町の始まりは、明治維新目前となった1867年 慶応3年、徳川御三家の尾張徳川藩の内紛からです。
この当時、藩の当主は10歳の義宣で、幼いことから実権は、前当主の慶勝が握ってました。
大政奉還から王政復古と、時勢が幕府政治から明治新政府へと移る過程で慶勝の身柄は京都にあって、新政府の議定という役職に就きました。
時勢のある新政府の役職に藩内は朝廷の勤王派と幕府側の佐幕派とで対立が激化しました。
国元の名古屋で家老の密命を受けた吉田知行は京都の慶勝のもとへ急ぎ、佐幕派が幼君 義宣を担ぎ上げて大阪の徳川慶喜と手を結ぶ構えだと報告します。
驚いた慶勝は急ぎ帰国し、佐幕派の家老達14名を弁明すら与えずに断罪しました。
後に青松葉事件と呼ばれる尾張徳川家の内紛でした。
直後、新政府は、慶勝を罷免し、廃藩置県を名目に、新政府の権力を薩摩、長州を中心とした中央集権の政治体制を作り出しました。
その後、尾張徳川家の家中は不穏な空気に包まれ、慶勝は旧藩士救済を名目に、北海道への入植を新政府に願い出ます。
与えられた地は、函館から北へ約100キロの北の地、アイヌ語でユーラプ(温泉が下る~の意味)と呼ばれる太平洋 内浦湾に面した、かつてアイヌの集落(コタン)があった土地でした。
1878年 明治11年、慶勝は、青松葉事件の当事者、吉田知行らとその家族ら72人を移住させました。 体のいい流罪といえたでしょう。
入植から3年余り、吉田らの必死の開墾により集落は発展し、町名を新たに命名しようという動きになり、前藩主 徳川慶勝は、古事記~須佐之男命の古歌~【八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣作る その八重垣を~】にちなみ、
町名を【八雲町】と命名しました。
町を発展させたのは、吉田らが作り出した徳川開墾試験場(徳川農場)で、後に町を大規模な酪農を主産業にした八雲町の礎となりました。