会津藩 白虎隊士 飯沼貞吉ゆかりの地碑
北海道札幌市中央区南7条西1丁目
昭和6年2月12日
元会津藩白虎隊士 飯沼貞吉 逝去
会津戦争の悲劇として白虎隊士の自刃は、今も語り継がれる逸話です。
昭和6年2月12日
江戸時代の幕末から、明治、大正、昭和と、四つの時代を生き抜いた白虎隊士 飯沼貞吉がこの世を去りました。
会津藩 白虎隊といえば、会津戦争において、鶴ヶ城から上がる火煙を城が落城したと悲観し、飯森山において、隊士が自刃をはかり、多くの若い命を散らせた会津戦争の中でも悲しい結末を迎えました。
会津戦争勃発時、15歳だった飯沼貞吉は、16歳以上とされた白虎隊入隊の決まりを自ら16歳だと偽り入隊。
運命の飯森山において、仲間の隊士が次々と自刃を始め、貞吉も自らの喉を突き刺して自刃を計りました。
丁度、飯森山に我が子を探しに入ってきた足軽の妻ハツが、虫の息の貞吉を発見し、戦場から運び出しました。
ハツは、戦闘を避けて米沢に逃れる長岡藩医に貞吉を治療してもらい、藩医の適切な治療もあり、貞吉は一命を取りとめました。
貞吉は、自刃を計った隊士唯一の生き残りとなり、終戦を迎えました。
維新後、貞吉は、通信技術者の道に進み、工部省の最下級の役職ながら全国各地で通信技師として赴任して歩き、寡黙に勤務を続け、明治20年になり、通信省本省公務局第一課長。
次いで明治24年 広島電信建築局建築課長と出世。
明治27年に日清戦争が開戦すると、大本営付きとなり、朝鮮へ派遣され、釜山において敵中で通信網を完成させて、勝利に貢献し、日清戦争勝利の第一報は、貞吉を中心とした技師たちの構築した通信網により日本に伝えられました。
戦後、貞吉は日清戦争の功績を認められ、勲七等の勲章と金一封を贈られ、高等官七等として叙任されました。
明治38年に札幌郵便局工務課長として北海道、札幌市へ妻子を伴って来道し、役5年間 北海道の電話通信網の発展に貢献し、明治43年に辞令を受け、仙台へ移動しました。
貞吉は仙台で余生を過ごし、昭和6年2月12日、76歳で生涯を閉じました。
飯沼貞吉が札幌で広めた通信網は、その後 電電公社、NTT北海道へと引き継がれ、ここから北海道の電話通信網が整備されていきました。
石碑の場所は、貞吉が妻子と共に札幌で暮らした地といわれてます。