安徳天皇御陵(阿彌陀寺陵)
山口県下関市阿弥陀寺町 赤間神宮
1180年 治承4年5月
平家討伐を訴えて挙兵した以仁王は源頼政と共にあえなく敗死したものの、全国の源氏に発せられた令旨により動き出すことになります。
鎮圧した平清盛は京から福原(現在の神戸市)へ平家の都とすべく公家衆の反発も意に介さず遷都を強行します。
8月になり、平家が令旨を受けた源氏を攻めるのではないかと見た伊豆の源頼朝は、ますます平家の圧政が忍び寄る危機感を持つ岳父、北条時政らと平家方の伊豆目代、山木(平)兼隆の館を襲撃して平家追討を狼煙を上げました。
次戦の石橋山の戦いで敗れた頼朝は海路で安房国(現在の千葉県)へ渡り、上総広常、千葉常胤ら土地の豪族らを味方につけて勢力を拡大して鎌倉へ入った頃には、河越、足立、江戸、畠山といった関東の主だった有力な武将を従えていました。
10月20日
頼朝を追討すべく関東へ下向した平家軍を富士川の戦いで破ると、頼朝は平家を追わず鎌倉へ戻ります。
従えてた坂東武者らも兵糧等の懸念もあり、京までの遠征を望まず、関東の地固めを優先しました。
清盛は宿願だった福原の遷都を断念することになります。
伊豆の源頼朝の挙兵、富士川の戦いでの敗北、さらには信濃では木曽義仲が挙兵して平家方に勝利し、頼朝と同じ様に本拠地に留まることで鎌倉、甲斐、信濃と源氏の三勢力が東にあることが更なる乱の拡大への対応も迫られました。
追い打ちをかける様に、頼朝の挙兵に呼応する形で反平家の態度を鮮明にしたのが南都、奈良の興福寺でした。
大和の警護を担う検非違使(けびいし)を僧兵らが襲撃したことが きっかけとなり、
暮れの12月28日、奈良に攻め入る平家軍は戦いが夜間に入ったことで周囲を明るくしようと民家に火を放ったところ、風に煽られて興福寺はもとより周囲の寺社、東大寺にも延焼、大仏殿に避難した僧や住民、千人余りが焼け落ちた建物の犠牲になるなど、南都焼討を指揮した総大将の平重衡(清盛五男)の悪名は後世にも語られる所業となりました。
この世の春を謳歌していた平家一門。
安徳天皇、満2歳を迎えた年の暮れ
これまでの隆盛は地に落ち、立て直す余力も清盛には時間が無さ過ぎました。
8に続きます。