あるプロデューサーとは、ワタシの恩師「本田延三郎」氏のこと。初期は映画、あとで演劇のプロデューサーをやっていました。育てた俳優、演出家、脚本家は数しれず。。。演劇界の巨人とも言われていた、と。
そんな凄い人と、ワタシが出会ったのは、18歳の時。五月舎というところでお世話になりました。五月舎は、もうなくなってしまいましたが。。。
今思うと、よくあんな別世界に住むような人と出会えたものだ、と驚くばかりなのですが、あの頃は、そんな奇跡に気付ける程オトナではありませんでしたね〜。
いつか本田さんのこと、このブログに書きたいと思っていました。(以前にもところどころ登場はしていました。)それが今日、である意味=今流行の「自分史」の1ページとしては欠かせない方であるし!、、。先日入手した「映画芸術」で追悼特集されていた「荒戸源次郎」さん(お会いしたことはない。ワタシが大好きな俳優、新井浩文さんを見出した方らしい。)の追悼文を読んでいたら。。。。もしワタシが何者かになっていたら、「本田延三郎」氏の追悼文を寄稿していたかも・・・なんて妄想・・・そのせいもあるのかも![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ase.gif)
本田さんには「プロフェッショナル」を教えてもらいました。口数の少ない方だったので、その背中で(笑)
演劇好きが高じて、プロデュースだけでは満足できなくなったのか(?)無料の演劇養成所を始めます。オーディションに受かれば、奨学金によって第一線で活躍している講師の授業を受けることができます。授業は午前中のみ、平日毎日でした。午後からは、自分に必要なレッスンを受けたり観劇をしなさい、という主旨で自主性が求められました(あ、生徒さんの中には、蜷川さん演出の舞台に出演してる人もいました。)五月舎の本公演が始まれば(おもに紀伊国屋ホールでした。)さまざまなお手伝いをしましたし、稽古はもちろん見学自由でした。自分たちの発表の稽古では、稽古場のあった千駄ヶ谷の青年館の中庭で、前日から稽古をしていて、仲間と一緒に「朝日」を眺めた思い出も!とにかく楽しかった〜
そんな本田さんのもとを、ワタシが去ることになったのは・・・
今でも思い出すと胸が苦しくなる・・・「やめます。」そう言ったワタシをみて、驚きと哀しみでワタシを一瞬見つめた本田さんの顔・・・・忘れること、、、なんてできない。。。
ワタシが五月舎に入所した前年のこと、本田さんプロデュースの、ある作品ーすでにマスコミ発表も劇場予約も終えた段階になって、脚本を書いていた人間が突然「もうこれ以上書けない、作家のプライドにかけて中止する」と記者会見で宣言したのだ。その記者会見を、中三だったワタシはTVで見ていた。。。(なんだその宣言。期日までに書けないのなら、作家のプライドは「筆を折る」ということでは?)・・とワタシなどは思ってしまうが。でも、その時代の空気?文学界?世論?なんだかわからないものが、なぜか作家を擁護した。みんなで。実に不思議な話。
それで、本田さんは失脚した。たくさんのモノを失い過ぎた。(それでも養成所を続けていたのは・・・意地?それとも、再起にかける一筋の光?・・・わからないけど、すべてがわからなかったけど・・・予定どおり、ワタシは五月舎を受験し、なんとか合格することができた・・・)
ワタシは、、、、残って本田さんの傍にいるべきなのか、それとも・・・と迷いに迷った。
ワタシは、、、役者をやりたい、と思うならば、まだまだ勉強が必要だ。はたして、この五月舎で役者修行を続けていけるのだろうか?(経営は、金銭的に目に見えて、傾いてきたのがわかる状況。)
でも、、、五月舎の養成システムのような素晴らしいところが、他に存在するのだろうか。
このふたつの葛藤で、ワタシは苦しんだ。
養成所の生徒がひとりひとり順番に、「ここに残るか、やめるか」を尋ねられる。もうすぐ、ワタシの順番がくる。。。。
で、ワタシは決めた。
もし、ワタシの順番がまわってくるまで、なにか一言でも、本田さんが言葉を発したら「ワタシはここに残ります。」と言おう!
結果は、
・・・先に書いたとおり。
でも、幸せなんだ、今。(あの頃の夢捨てたけど、なのか、捨てたから!なのかは、一生答えが出ないことなんだろうけどネ。と言いつつ出てるよ〜。内緒
)
あちらの世界にいって本田さんに会う機会があったら
「ありがとうございました。」と感謝の気持ちを伝えること。もし、本田さんと世間話ができるような関係になっていれば(!?)「あの時実は・・・・」って、本当の気持ちを伝えたい!ーというのが、ワタシの夢、です!!叶うかな?
そんな凄い人と、ワタシが出会ったのは、18歳の時。五月舎というところでお世話になりました。五月舎は、もうなくなってしまいましたが。。。
今思うと、よくあんな別世界に住むような人と出会えたものだ、と驚くばかりなのですが、あの頃は、そんな奇跡に気付ける程オトナではありませんでしたね〜。
いつか本田さんのこと、このブログに書きたいと思っていました。(以前にもところどころ登場はしていました。)それが今日、である意味=今流行の「自分史」の1ページとしては欠かせない方であるし!、、。先日入手した「映画芸術」で追悼特集されていた「荒戸源次郎」さん(お会いしたことはない。ワタシが大好きな俳優、新井浩文さんを見出した方らしい。)の追悼文を読んでいたら。。。。もしワタシが何者かになっていたら、「本田延三郎」氏の追悼文を寄稿していたかも・・・なんて妄想・・・そのせいもあるのかも
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ase.gif)
本田さんには「プロフェッショナル」を教えてもらいました。口数の少ない方だったので、その背中で(笑)
演劇好きが高じて、プロデュースだけでは満足できなくなったのか(?)無料の演劇養成所を始めます。オーディションに受かれば、奨学金によって第一線で活躍している講師の授業を受けることができます。授業は午前中のみ、平日毎日でした。午後からは、自分に必要なレッスンを受けたり観劇をしなさい、という主旨で自主性が求められました(あ、生徒さんの中には、蜷川さん演出の舞台に出演してる人もいました。)五月舎の本公演が始まれば(おもに紀伊国屋ホールでした。)さまざまなお手伝いをしましたし、稽古はもちろん見学自由でした。自分たちの発表の稽古では、稽古場のあった千駄ヶ谷の青年館の中庭で、前日から稽古をしていて、仲間と一緒に「朝日」を眺めた思い出も!とにかく楽しかった〜
そんな本田さんのもとを、ワタシが去ることになったのは・・・
今でも思い出すと胸が苦しくなる・・・「やめます。」そう言ったワタシをみて、驚きと哀しみでワタシを一瞬見つめた本田さんの顔・・・・忘れること、、、なんてできない。。。
ワタシが五月舎に入所した前年のこと、本田さんプロデュースの、ある作品ーすでにマスコミ発表も劇場予約も終えた段階になって、脚本を書いていた人間が突然「もうこれ以上書けない、作家のプライドにかけて中止する」と記者会見で宣言したのだ。その記者会見を、中三だったワタシはTVで見ていた。。。(なんだその宣言。期日までに書けないのなら、作家のプライドは「筆を折る」ということでは?)・・とワタシなどは思ってしまうが。でも、その時代の空気?文学界?世論?なんだかわからないものが、なぜか作家を擁護した。みんなで。実に不思議な話。
それで、本田さんは失脚した。たくさんのモノを失い過ぎた。(それでも養成所を続けていたのは・・・意地?それとも、再起にかける一筋の光?・・・わからないけど、すべてがわからなかったけど・・・予定どおり、ワタシは五月舎を受験し、なんとか合格することができた・・・)
ワタシは、、、、残って本田さんの傍にいるべきなのか、それとも・・・と迷いに迷った。
ワタシは、、、役者をやりたい、と思うならば、まだまだ勉強が必要だ。はたして、この五月舎で役者修行を続けていけるのだろうか?(経営は、金銭的に目に見えて、傾いてきたのがわかる状況。)
でも、、、五月舎の養成システムのような素晴らしいところが、他に存在するのだろうか。
このふたつの葛藤で、ワタシは苦しんだ。
養成所の生徒がひとりひとり順番に、「ここに残るか、やめるか」を尋ねられる。もうすぐ、ワタシの順番がくる。。。。
で、ワタシは決めた。
もし、ワタシの順番がまわってくるまで、なにか一言でも、本田さんが言葉を発したら「ワタシはここに残ります。」と言おう!
結果は、
・・・先に書いたとおり。
でも、幸せなんだ、今。(あの頃の夢捨てたけど、なのか、捨てたから!なのかは、一生答えが出ないことなんだろうけどネ。と言いつつ出てるよ〜。内緒
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_zzz.gif)
あちらの世界にいって本田さんに会う機会があったら
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_fight.gif)
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