今日のひと花は「姫林檎)」
家の近くの親水公園に姫林檎の樹が一本。この写真は8年前の4月23日に撮ったもの。
花言葉は、「誘惑」「後悔」・・・もちろんアダムとイヴの話からだろう。
ほかに「選ばれた恋」というのも。これは藤村の詩「初恋」からの連想かも。
さて、一昨日から明治期の西洋画家探しを始めた。
女性画家から始めたので、今日はその報告をしたい。
ここに一枚の写真がある。
日本で初めての西洋美術専門学校~工部美術学校の女生徒たち6人の写真だ。
女性の名は、前列右から山下りん、川路花、神中糸子、 後列右から秋尾園、大鳥雛、山室政子。
真ん中の背の高い男性が、画学の指導教師アントニオ・フォンタネージ。(イタリア人)
いわゆるお雇い外国人。(左端は通訳の男性)
美術学校が創立されたのは1878年(明治9年)。
当時、西洋美術の指導を仰ぐならフランスからだろう。
工部省(今の経産省などの省庁に相当)はルネサンス時代のつもりか。
美術学校は、工部大学校の中にあった。
井上安治「虎ノ門工部大学校」
美術学校には画学科と彫刻学科があった。
彫刻学科の指導教師もイタリア人で、ヴィンチェンツォ・ラグーザ。
ラグーザ玉と結婚した人物である。
6人の女性たちのその後を調べてみた。
洋画家として記録が残っているのは、山下りん、秋尾園の2人。
が、絵画の作品を確認できたのは、山下りんだけ。
その彼女の絵画作品も、ロシア正教の敬虔な信者ゆえか、宗教画、イコン画だった。
もう一人の秋尾園は、写真師と結婚し、工部美術学校を退学。
その後は夫の幻灯機製造に関わり、彩色・下絵を描いたという。
また、探索家?としては、フォンタネージがどんな絵を描いたかも気になる。
2点だけ、著作権フリーの作品があった。
これだけでは何も分からない・・・残念!
そのフォンタネージ先生の話だが、生徒には慕われたらしい。
1878年にフォンタネージが帰国すると、画学科学生が多く退学したという。
また、美術学校の卒業生の中には、このブログでも紹介した浅井忠の名があった。
工部美術学校を卒業しなくとも洋画家にはなれる。
明治の洋画家、の広い観点からも調べてみた。
ただ人数が多過ぎて途中で挫折・・・それまでに見つかった女流は2人。
長谷川春子、山脇敏子・・・まだまだいるだろう。
前者はPDFに絵が残っていたが、誰かの研究論文のようなので掲載はしない。
(時局柄、戦争に関する絵が多いようだ)面白い絵もあるので、内緒で小さく。
山脇敏子の絵画作品は見つからなかったが、服飾デザイナーの先駆者として有名。
また、山脇美術専門学校の設立者でもある。
服飾音痴の私としては、夫の津田清風との関りに関心がある。
津田清風も画家(書家なども)であり、夏目漱石の友人でもあった。
漱石に油彩画を手ほどきしたのも彼だそうだ。
その清風が愛人を作ったことで彼女は離婚、それをきっかけに絵の道は諦めた。
私は私立探偵か?
いや、彼女のことを調べていたら、漱石や多くの画家たちが出て来たまでだ。
離婚前だが、女流画家の団体作りに敏子も関係していた。
大正7年設立の「朱葉会(しゅようかい)」。命名者は与謝野晶子。
顧問に有島生馬、岡田三郎助、安井曾太郎、藤田嗣冶など画家の名が残る。
今も続いている「朱葉会」のサイトで調べた。
長くなってしまったが、ここまでが明治の洋画家探索レポート~その1。
明治の時代に洋画家を志した人たちが私の想像を超えて数多くいた。
彼らの作品をできるだけ探し出し、この報告も続けていきたい。
最後に音楽を聴かないと淋しいので、BGMを一曲。
ヨーロピアン・ジャズ・トリオの「祈り」というアルバムから。
なぜか、こんな曲が入っている・・・。
それでは明日もまたよろしく!
[Rosey]