江戸時代に渡来した植物という。
金色をして花の形が梅に似ていることから和名がつけられたとか。
花言葉:「きらめき」「悲しみをとめる」「秘密」「太陽の輝き」
明治の画家~田中保(たなかやすし)その2、フランスへ移住後を書くつもりでいるが、パリ時代の作品がなかなか見つからない。
逆に、在米(在シアトル)時代の作品がだいぶ見つかったので、その紹介かたがた、田中保の誕生以降を振り返ってみる。
「田中保の生誕」
彼が生まれたのは1886(明治19)年、埼玉県岩槻市(今のさいたま市)。
旧岩槻藩の藩士の家系だが、彼が16歳の時に父が破産、一家は離散する。
「1904年(M37)ー18歳で渡米}
埼玉の旧制中学(今の浦和高校)を卒業後、単身渡米する。
当時は日本から米国への移民が盛んな頃だった。
「画家への道」
農家の手伝いやピーナッツ売りなどで暮らしながら、独学で絵の勉強を始めた。
1912年(T1-)26歳の頃、オランダ人画家フォッコ・タダマの画塾に入学、画家の道を本格的に歩みだす。
タダマの絵が3点あったので参考までに。
「海辺の母子」 「シアトルの公衆市場」
「婦人」
「才能の開花」
ほどなくタダマの塾で教師をしたり、自分でも画塾を開いたりした。
彼の最初の絵は1912年に描かれている。(画像が小さく不鮮明だが・・・)
(作品名不詳)「埼玉県立美術館所蔵」
同年にシアトルの風景を描いたスケッチ2枚。
「埼玉県立美術館所蔵」
やがて、個展を開いたりして、知名度が上がっていった。
1915年(T5ー29歳)、サンフランシスコ万博に米国代表として出品、入選する。
万博入選作「マドロナの影」(1915年)
「猥褻物陳列?事件」
万博入選から2年、個展に出品した裸婦画が日本でいう猥褻物と当局から指摘され、作品の撤去を命じられた。
田中は抗議文を書いて抵抗。その評判で個展の入場者がどっと増えたという。
その頃描かれた裸婦の絵を掲げておく。
何れも「埼玉県立美術館所蔵」
彼も裸婦ばかり書いたわけではない。
在米時代に描いたと思われる絵を掲げておく。
何れも「埼玉県立美術館所蔵」
最後の絵3枚は、その頃流行し始めたキュビズムの絵。
描いてみたものの性が合わなかったのか、その後は見当たらない。
「米国人女性と結婚へ」
事件と同じ年、田中は裁判所判事の娘ルイーズ・ゲブハード・カン(詩人・美術評論家)と結婚。
移民排斥運動も激しい中、彼との結婚は醜聞扱いされたが、彼女は終生、田中の理解者、擁護者だった。
夫人のことを調べたが情報が殆ど無い、残念!
最後になったが、田中が母に充てたポートレート写真が遺されている。
シアトル時代に撮ったもののようだ。
それでは、次回その3はパリ移住後の話に移ろう。どうぞよろしく。
[Rosey]