1992年9月から翌年4月にかけて、ナオミは聖ローレンス大学2年目をディベート部の活動にどっぷりつかって過ごした。
アメリカでは、大学対抗の政策ディベート大会シーズンは9月の北アイオワ大学大会で幕を開ける。一つの山場が11月のシカゴ近郊ノースウエスタン大学のオーエン・クーン記念大会であり、その次の山場がクリスマス直前に開かれるロスでの南カリフォルニア大学大会である。
年が明けて、2月に開かれる南部のウェイク・フォレスト大学ディキシー大会を経て、3月のカンザス大学ハート・オブ・アメリカ大会で招待制大会が終了すると、そのシーズンの通算成績のよかった大学による年間最大のイベント、4月の全米ディベート選手権に備えることになる。
ディベート部に所属する学生は、一つの論題を9ヶ月にわたってリサーチし、資料を作成し、ほぼ毎週末各地の大会に参加して過ごす。1992年秋から翌春にかけての論題は、「米国内における有害廃棄物の投棄から生じるすべての危害は製造者の責任とするべきか?」であった。
政策論題はさまざまなケースを含んでおり、有害廃棄物の定義に関し、現在はもちろん過去や将来の可能性まで、私企業の産業廃棄物から政府関連施設から出る廃棄物までのすべてをリサーチする必要があった。ディベート大会には、木曜日夜に飛行機や大学院生のアシスタントコーチたちが運転するヴァンで会場となる大学近くのホテルに乗り込む。コミュニケーション学部の大学院生たちは、「芸は身を助ける」見本でディベートコーチをすると授業料免除の特典がつく。金土曜日の2日間で、肯定側、否定側各4試合の計8試合の予選の審査員をしなければならないため、人並み以上の体力がないとコーチは務まらなかった。一度トーナメントに出かけると、週末がつぶれるため厳しい大学院の授業の予習や課題をこなす知力も求められることは言うまでもない。
大会に参加する学部生にとっても、予選ラウンドは1試合2時間近くかかる試合を1日4試合する体力勝負の側面もある。予選8試合で5勝3敗以上の成績をおさめたチームは、日曜日にトーナメント方式の決勝ラウンドに進む。通常、16チーム以上が決勝ラウンドには参加するため、朝9時に開始しても、決勝戦が真夜中にいたることもめずらしくはない。決勝ラウンドで、肯定・否定側のどちらを取るかはコイントスによって決まるが、すでに予選ラウンドで対戦していた場合、逆のサイドを取るというルールがある。
肯定側は、証拠資料に基づき政策のメリットを論じることで論題の採択を提唱する。採択の拒絶を提唱する否定側には、主に3つの戦略上の選択肢がある。一つ目が、肯定側が提唱する政策はメリットを達成できないと証明すること。二つ目が、肯定側のメリットを上回るデメリットが生じると論じること。三つ目が、肯定側のメリットを上回るようなメリットを得られる相互に排他的なカウンタープランと呼ばれる代案を提示することである。「相互に排他的」とは、簡単に言えば「同時に採択できない」という意味である。肯定側が首都をワシントン特別行政区からニューヨークに移転すべきだというプランを提出した時、否定側がニューヨークよりもロサンゼルスのようが移転先としてよいと論じることが一例である。同時に二つの都市に首都を移転することはできないので、肯定側のプランと否定側の代案は相互に排他的となる。それ以外の戦略として、肯定側のケースが論題の要求に見合わないと論じる「論題適合性」もあるが、通常、上記3つの戦略と組み合わされる場合が多い。
ランキングに参加中です。クリックして応援お願いします!
にほんブログ村