「これが善と悪が相対的という根拠よ。善は、時代の要請に合えば善となり、時代がそれを排除しようとすれば悪のレッテルを貼られる。あるいは、善も少数派の支持しか得られなければ間違いというレッテルを貼られる。私は思うの。正しいことは悪魔が言っても正しいし、まちがったことは天使が言ってもまちがってる。でも、人はしばしば『奴は悪魔だ。だから、奴の言うことに全て反対する』とか『俺の側には神がいる。だから、つねに自分の決定は正しい』と考える」
「問題は、どこにあるのですか?」
「そうした判断自体は、誰にでもあることでしかたがない。問題は、たしかに『どこに問題があるか』だわ。視野の狭い、柔軟性に欠けた判断をすることの問題は、最初の決定にしがみついて他の提案を取り入れられなかったり、状況に臨機応変に対応できなかったりすることだわ」
「チョイス・イズ・トラジックですね」
「・・・・・・」
「どうしたんですか?」
「おどろいたわ。そのフレーズを知っているのね。私の師匠ドン・パーソン博士の口癖なのよ。一つのことを選んでしまえば、もう別のことは選べなくなる。だから決定には責任を持たなくてはいけない。その意味で、選択は悲劇的だ」
訊かれなかったので、子供の時に夏海から教わったとは言わなかった。ナオミは、代わりに質問した。「最終的に修正されるなら短期的に多数決によってまちがった決定がなされるのも、しかたがないのでは? 多数決の原則をくつがえすことが、民主主義の世の中で可能でしょうか」
「しかたがないとあきらめるのもいいでしょう。もしも最終的に間違いが修正されるのならばね。でも、2つの点を覚えておいて。一つには、間違いには取り返しのつかないものもある。人種差別に基づいてホロコーストで殺されたユダヤ人たちの命は戻ってこないし、原爆投下によって失われた広島と長崎の一般市民の命も戻ってこない。戦争とは、宣戦布告を開始の合図にして主権国家同士が戦闘員をコマにして行うゲームなの。ただし、戦闘員の命がかかっているとても真剣な目的達成のためのゲーム。同時に、戦闘能力の無い捕虜や、ましてや一般市民は守られなければならない。今もナチ思想を信奉するネオナチも存在するし、原爆にいたっては早期の戦争終結に貢献した英雄だというでっち上げがまかり通っている」ナンシーは続けた。
「もう一つ忘れてならないのは、公的な政策決定の範囲を超えるような保守主義とリベラリズムの存在よ。極端な右寄りは通常の保守から区別されなくてはいけないし、極端な左寄りは通常のリベラリズムから区別されるべきなのよ。これも私の先輩のグッドナイトが言ってるんだけど、公的な政策決定においては、リベラルな前提条件も保守的な前提条件も許容範囲だけど、リベラリズムが革命的段階にまで、あるいは保守主義が反動主義的段階にまでエスカレートした場合、もはや公的な政策決定のプロセスに存在すべき場所はないわ」
「どういう意味ですか?」
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