またたび

どこかに住んでいる太っちょのオジサンが見るためのブログ

世界中が応援しています!

2011-04-14 15:39:50 | 震災関係
気楽会日記にも同じ内容を載せさせていただきましたが、個人ブログにもアップいたします。


世界中の方々が様々な形で日本を応援しています。

数ある中の一つを紹介させていただきます。


その方はドイツ在住の「クーゲレ彩」さんです。
クーゲレ彩さんは気仙沼との関わりは一切ありません。
震災後に気仙沼出身でドイツで画家の小野寺さんと出会い、
気仙沼の事情を知るとチャリティーコンサートを開き、
気仙沼に義援金を送金してくださったそうです。
ほんとに世界中が応援しています。

遠くの場所にいても、その場所で自分ができることをして、
応援している方はたくさんいます。想いは一つです。

そのクーゲレ彩さんからの気仙沼へのメッセージと
その時のチャリティーコンサートの写真をいただきました。

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気仙沼市民の皆様、その他各地の被災者の方々に、
ドイツのライプツィヒ市より、まずは心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます。
今回の震災で、皆さんが受けた恐怖と心の痛みは、
私達が察するなどと表現してはいいものではないと思っています。


それでも、私たち海外に身をおく、在外日本人にとって、今回の震災は心の打ちのめされる現実でした。その場にいて苦しみを分かち合えないもどかしさは、さらに私たちを苦しめる事となっていました。
私たちがここでできる事は何か・・・できる事はあるのか・・・何をすべきなのか・・・考え続けて一週間が経ち、まず最初に私たちがした事は、義援金受付口座を記したビラを、ライプツィヒの街の人に配る事でした。多くの人は、どこに一体送れば確実に現地に届くのかがわからず、戸惑っていただけに、この情報提供は、温かく受け入れられ、中には頭を深々と下げて、「日本人の毅然とした態度に敬意を表したい、心からお見舞い申し上げたい」と言ってくれる人もいました。


かつて数多くの大作曲家が過ごした音楽の街、ライプツィヒで音楽を学び、現在は音楽大学の非常勤講師として、そして子供にピアノを教えるピアノ教師として従事する私には、数え切れないほどの音楽仲間が存在します。そんな仲間が、私の声に応えて100人以上集まり、わずか10日ほどの準備期間で行われたのが、3月31日のチャリティコンサートでした。


そこから一週間ほど遡った頃、私は気仙沼出身の芸術家で、ベルリンにアトリエをお持ちの小野寺綾さんとコンタクトを持ちました。
集める義援金を、何とか早く、直接被災者の方々の手に届く所に送れないかと、色々模索中だった私は、綾さんとのやり取りの中で、気仙沼を応援、支援したい気持ちが日々強くなっていきました。そこで、私はこのチャリティコンサートで集まった義援金の3分の1を独日協会に託し、残り3分の2を気仙沼に送ることに決めたのでした。


当日は、3つの合唱団とソリストを合わせた100人の演奏家、400人の観客を集め、日本人とドイツ人が混ざって、司会者・演奏者・観客の心が一つになった、とてもいいコンサートとなりました。教会に響き渡るコーラスの歌声、オルガンの音、その他楽器の音、司会者の話、どれもが心のこもった素晴らしいものでした。
そしてその日、私たちは、3800ユーロ(およそ45万円)の義援金を集める事ができたのでした。
その内1200ユーロを独日協会へ、残りの2600ユーロを気仙沼へ送る分としました。


さらに、ライプツィヒから車で1時間半ほどの所で行われた、ザクセン州選抜コーラスによるチャリティコンサートで集まった500ユーロ、個人的に知人・親戚から預かった義援金530ユーロを合わせると、3630ユーロ(およそ44万円)が近日中に気仙沼の口座に送金できる予定です。


これらが必要な分のごく一部でも、皆さんの元気の基に使われれば幸いです。


一つお願いがあります。
復興に5年から10年かかるといわれていますが、息の長い支援を続けていく為にも、皆さんが受け取った元気を私たちの方に知らせてはいただけないでしょうか。そうしたキャッチボールが、これからの私たちの励みにもなります。そして今回支援してくれた、ドイツ人の仲間達にも新たなモチベーションとなって、次へのチャリティーコンサートへつなげることが出来るのです。この大変な中、今はそんな時間も余裕もないことは分かっています。ただ、もう少し落ち着いてきた頃に、何か一言お知らせをいただけたら、また、皆さんの元気な様子を写真でいただけたら、私たちにとってこんなに嬉しい事はありません。


それでは、皆さんが、大人も子供も心から笑顔になれる日が、きっと来る事を信じて、「冬は必ず春になる」事を信じて、ドイツから応援・支援しています。一緒に一歩一歩進んでいきましょう。


ご不便な生活がまだまだ続くと思われますが、皆さんお体を大切になさってください。


桜の花が皆さんの心の安らぎになりますように・・・
4月8日
ライプツィヒ音楽家、及び日本人会代表、クーゲレ彩

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その時の写真です。

①コーラス演奏


②演奏会幕開け。オルガン伴奏で日本人も何人か参加して90人以上の大合唱


③演奏会の終わりに、演奏者達への感謝の意味を込めて、折鶴を一人ひとりにプレゼントしました。(ちなみに観客の皆さんにも、義援金のお礼に出口で折鶴を渡しました。)



クーゲレ彩さん、本当にありがとうございました。

これを読んで元気にならない方はいないと思います。
世界中が応援しています。
今度は私たちがお返しする番です。
ドイツの方々から受け取った元気を倍にして送り返して、
キャッチボールを続けていきましょう。

ちなみに小野寺さんという方は私の同級生で、ドイツで画家の修行をされています。
ブックマークにありますので、ぜひご覧ください。
5月に個展が開かれるそうです。

コヤマ菓子店再始動!

2011-04-14 10:47:40 | 震災関係
まずは兄のブログを見てください
http://subahibi.blog87.fc2.com/


そうです。
コヤマ菓子店がバースデーケーキの注文を始めたのです。

津波でコヤマ菓子店は跡形もなくなりました。自宅もなくなりました。
全てを失いましたが、気持ちは負けていませんでした。

これも復興の一つです。 気仙沼再生の道は着実に進んでいます。
震災から約1ヶ月、今後徐々に各地でこういうニュースが溢れてくると思います。
ほんとに嬉しいニュースです。
息子として出来る限り協力していきたいと思います。

今後ともよろしくお願い致します。

4月3日 朝 幸町を歩く

2011-04-13 08:24:27 | 震災関係

父親と別れまして、独りで歩くことにしました。
ここは気仙沼中学校です。
今はわかりませんが、現在は学校が始まるために移動されたと思いますが、
4月3日の時点では避難所になっていました。

ちなみに中学校時代に2階のベランダから飛び降りたときがあります。
何で落ちたんでしょう。よく覚えていません。

グランドにはたくさんの車が停まっていました。
地形が高い場所にある地域は震災前となんら変わりませんが、
そこから坂を下ると景色は一変します。

本来ならまっすぐ道路があるのですが、塞がってしまっているため、
人の敷地を通りました。

場所は市民会館脇の気仙沼公園から下る坂です。

加藤商店がありましてその奥に大川が流れています。右手にガスタンクがありました。

そちらには向かわずに幸町4丁目のほうに向かいました。
途中でミヤコーバスがどこからか流れ着いていました。

街の原型はどこにもありません。

あたりは手つかずといいますか、手をつけられないといった状況です
右に曲がると大橋でまっすぐ進むと南駅の方に出ます。

私はここで育ちました。

私はすれ違う全員に挨拶しました。
「おざいます~」(一応おはようございますといっているつもり)
作業か何かしている方には
「おざいます~、がんばっぺね」と声をかけました。

幸町の地区会館への道路はふさがれていました。

写真の左上からよくテレビ中継されていました。線路があった場所です。


絶対にあってはならない場所に車があります。
今にも崩れ落ちそうでしたが、絶妙なバランスで耐えています。
津波で押し上げられたと思います。

これから大橋を渡って、南気仙沼小学校に向かいます。

ブログで多くの写真を載せています。
感じ方は人それぞれですが、多くの方に現状を認知してもらいたいです。
そして、この光景を焼き付けてください。私は絶対に忘れません。


日はまた昇る、絶対に昇る。
気仙沼、東北、日本も昇るに決まっている。










~東北関東大震災の人々へ~

父と散歩 

2011-04-12 08:23:27 | 震災関係
次の日、朝早く目覚めた私は散歩に行こうと支度していると
父が「一緒に行くか」と声をかけてくれて、
生まれて初めて父と散歩に出かけました。
最初は気仙沼市役所近くのワンテンビルという
地域交流センターに行きました。

新聞などが無料で配布してあり、情報収集源となっています。

総合案内所には地図や震災後の写真などがありました。



現在ワンテンビルの防災センター等は被災者連絡版が設置されています。

震災直後は携帯電やネットなどの情報網がマヒしていましたので、
ここに安否情報などを書いて確認していたそうです。

壁一面に貼ってあります。

これは父が貼りました↓
気仙沼中学校20回生、私は53回生になるのかな?
あまり同窓会に参加したことがないので、わかりません。

同級生が全国から救援物資を届けてくださっています。
ありがたいですね。

気仙沼人は負けないよ!
絶対に!

日出ずる国です。絶対に昇ってきます!
Rising Sun!数々の色紙や寄せ書きを見て、また胸が熱くなりました。

父は毎朝、ここに来るのが日課みたいでスポーツ新聞や河北新報などを持っていきます。

と、生まれて初めて父を朝散歩しているのですが、、、
最初は話したのですが、会話があまりないです。
何話したらいいかわからず、黙々と歩きました。

時間だけが過ぎていきます。
だって、朝一緒にいるってほとんどなかったんですよ。
お互い若干の照れがあるというもんです。
私「・・・・・・タバコやめないの?」
父「・・・ううん、やめない・・・」
こんな感じの会話しかできませんでした。

気仙沼小学校のグランドには自衛隊がキャンプしています。
自衛隊にはほんと頭が下がります。

ありがとうございます。
ほんと感謝してもし尽くせない気持ちです。

気仙沼小学校のグランドを抜け、気仙沼中学校で父と別れました。

会話は少なかったですが、こんな機会は滅多にないのでちょっと嬉しかったです。
酒はいいけど、タバコは控えめに。
そういうと怒るから言わない私。口に出さないけど、心配してるんだからね。

また帰ったときに一緒に散歩します。
次も多分会話は少なめになりそう。
そんなこんなの親子でした。

『一人じゃない、仲間がいる』

2011-04-11 08:23:06 | 震災関係
支援物資の種類は様々ありますが、そのなかでも喜ばれるものはなんだろうと考え、
「そうだ!本家気楽会のためにTシャツを作ろう!」
と急に思いついたのは気仙沼に出発する一週間前でした。

そこで無茶とわかりつつも、知人の久嶋さんにTシャツ制作を依頼すると
久嶋さんは二つ返事で承諾してくださいました。
久嶋さん、本当にありがとうございます。
Tシャツ制作をしていただいた会社は
【EARTH☆FACE】さんです。
HPをチェックしてください!!
気楽会へのメッセージがあります。

土曜日の無茶な電話から5日後の木曜日に完成していただきました。
ほかのスケジュールがあったはずなのに本当にありがたいです。

正面は力強く「気楽会」と書いてありまして、バックプリントには

『一人じゃない仲間がいる
 頑張ろう気仙沼』
とプリントしてあります。
「う」の文字のバランスが好きです。
着るとこんな感じです。

かっこいい!!!
久嶋さんのセンス抜群です!!!

気楽会日記でもかずきさんが取り上げてくださっています。
震災から1 ヶ月~気楽会再出発へ~

喜んでいただいたみたいですごく嬉しいです。
復興へのスピードが加速されたと思います!

私は気楽会東京支部として、気楽会に対しては気楽会日記
書く以外何も貢献できてはいませんでした。
これで少しは貢献できたかな。


もう一度Tシャツを制作していただきました。
【EARTH☆FACE】さんのHPを載せます。
久嶋さん、ありがとうございました!
今度ともよろしくお願いいたします。

ネバギバ!

2011-04-08 08:19:29 | 震災関係
また大きな余震がありました。
電話回線がパンクして、気仙沼となかなか連絡が取れませんでしたが、
どうにか固定電話につながりまして、安否を確認できました。

もうこれ以上、何も失いたくない。
夜にまた涙がこぼれてしまいました。
頑張ろう、今を耐えましょう。
それ以上言葉が見つかりません。




昨日に引き続き、現場の写真を載せます。
自宅近辺で、

家の車のRAUM(ラウム)がありました。
帰省するたびに乗って、市内をグルグル回っていました。
ご覧の通り、ボロボロになってしまいました。
今までありがとうね。いつもサイドブレーキきつめにかけてごめんなさい。
ラジオから流れる本間ちゃんの声は忘れないよ。楽しかったよ。


ドラムは発見しましたが、ガレキからのもの捜しはまだまだ続けました。

塾のテキストです。
たぶん、マルス(潮見町)のかな。

そんときに使っていたであろうノートの切れ端。
いつの時でしょうか?
英語の文法を見てもさっぱりです。
字の汚さは相も変わらずです。

こういう中から探し出しています。
この中に数か月前まで使っていたものが泥まみれであるんです。
仕方ないことと頭でわかっていますが、気持ちは複雑です。
私はみんなに現場を伝えたかったので撮ってきた写真をすべて載せます。


この幸町は海から700メートルくらい離れていますが、
津波の高さはこのくらいです。

二階建てアパートの

わかりますか?窓のところまで津波が来ているんです。

まさか幸町までこの高さの津波が来るなんて、誰も想像できなかったはずです。

私がもし自宅にいたら、非難せずにたぶん二階にいたと思います。
ほんとにまさか、ここまで来るとは、、

あの日からいなくなってしまった猫の名前を呼びましたが、出てきませんでした。

でも、必ずいるはずです。

次兄は帰る際に猫の餌を家の近くに置いていました。
だって、猫たちが戻ってきたときに何もなかったら可哀そうだもんね。
家族は古町の元魚屋さんにいるから、場所がわかったら2匹でおいでね。
トットとちびすけ(ガン)も家族なんだから、気が向いたらでいいから来てね。
いつまでも待ってるよ。


幸町の公園にはありとあらゆるものが流れ着いていました。

これは南駅前のライオンパチンコのパチンコ台でしょう。
GAROの新台だと思います。

空台のポップ。
津波の流れはこちら側に来ていることが予測できました。
この近辺にはまだまだ行方不明者がいるみたいです。
一日も早く見つかってほしいです。

幸町からまた仲町に戻りました。
コヤマのもの探しをしていると外人が写真を撮っていました。

腕章をしていなかったので、たぶん個人的な撮っているだけだと思います。

私はがれきの中から見つけ出したアルバムを持って笑顔で
ネバギバ!
(never give up)

と叫んで、高々と親指を立てました。

外国人はうんうんという頭を上下させ、写真を撮っていました。
諦めてたまっかよ。

幸町とは幸せな町。
みんなで幸せな町を取り戻しましょう!!
幸せな町を築きあげましょう!!!

鼓動が刻む8ビート

2011-04-07 08:28:00 | 震災関係
兄二人とガレキの下からコヤマ菓子店のものを探しました。
時間を忘れるくらい探し続けました。
具体的に何かを探し出すわけではありませんが、
ヘドロをかきわける手は止まることなく掘り続けました。
本当に色んなものが見つかります。
兄弟3人で同じ作業をするなんて、何年ぶりでしょうか。
みなと祭り以外では、、、覚えていません。
兄弟揃ってはなかなか記憶にないものです。
自分で言うのも変ですが兄弟っていいですよね。
小さい頃には気づきませんでした。
ようやく大人になってからいいもんだなと気づきました。

次に実家があった幸町に向かいました。

至る所から海水が逆流しています。満潮にならなくてもある程度水は残っています。
元々は普通の一般道でした。

以前はこんな感じです。あまり比較とかはしたくありませんが、
色んな人に真実を伝えたいのであえて載せます。
ヘドロの中を歩くのは大変で、すり足で歩かないと、
長靴に海水が入ってしまいます。
ちなみに靴の中に水がはいることを気仙沼弁で
「かっぽぐる」といいます。
どうにかかっぽぐらずに歩きました。


そして、ここが幸町4丁目です。
右手に公園がありました。

そして我が家です。本当に何もありませんでした。
後ろに見える家はどこからか流れてきた家です。
勝手にリフォームしてしまいました。。。。

家の跡地から見た内の脇公園です。
遊具の代わりにガレキで全体的にアスレチックになってしまっています。

家は道路に流されてしまったため、壊されて家にあったものは方々に散らばっていました。
家の屋根が見つかり、どうやら小山家のものはここにあると予測し、ガレキの中を探しました。

事前に兄がアルバムなどはどうにか救出してくれて、私が探しているのは
ドラムセットとピアノです。
高校時代にバンドをやっていて担当はドラムでした。
高校卒業後は全然触っていませんでしたが、ドラム一式は応接間に残したままでした。

探していると次兄が「あったぞ」と言って、私が駆け寄ってみると
そこには紛れもなく私の

スネアドラム
がありました!

こんな形で出会うなんて。。。
新聞配達で貯めたお金とネットオークションで売り買いをして貯めたお金で買ったPearlのドラム。
中学校の文化祭、ワンテンビル、みなと祭りでのライブ。
思い出はたくさんあります。
私は急いで掘り出しました。

叩きましたが、音は鈍く、響くことなくすぐに音は消えました。
でも私には「Like@angel」、「Cadillac」、「White Riot」、「青葉城恋唄」で
叩くスネアの音がありありと聞こえてきました。
鼓膜が破れるくらい叩いたクラッシュシンバル、すぐにネジが外れてしまうハイハット、
貼り替えを2回したバスドラ。ジョン・ボーナムのマネをして、素手でドラムをたたき、骨が折れそうになった私の右手の薬指。
一緒にいた時間は長くはなかったけど、手に取った瞬間、思い出が音ともに甦ってきました。

ピアノは残念ながら破片すら見つかりませんでしたが、
ピアノの発表会で弾いた「ff(フォルテシモ)」は未だに右手が覚えている。

心臓の鼓動がビートを刻む限り、この音楽は鳴りやむことはない。
ときに激しく、ときにやさしく、いつまでも鳴り続ける。
いい思い出をありがとう。
そう思い、スネアに別れを告げた。

空がうらやましいくらいに青かった。

長かった3週間

2011-04-06 08:29:15 | 震災関係
写真を載せることに色々と悩みましたが、ブログを通じて現状を伝えることも
私たちの役目ではないかと思い、載せることにしました。

幸町4丁目近辺です。

3週間は本当に長く感じました。
震災後は兎に角すぐにでも行きたいという気持ちでした。

行ってどうこうするわけでもありませんでしたが、
家族に会いたいという気持ちが強いものでした。
テレビはで炎に包まれた気仙沼の惨状が延々と流れていました。
テレビにくぎ付けで気仙沼が映るたびに家族の姿を探していました。
日曜日の夕方に秋田から、どうにかたどり着いた親戚が家族の安否を確認して、
とりあえず安心しましたが、そこからモヤモヤな日が続きました。
正直、仕事にも集中できずにネットで気仙沼の情報ばかり調べていました。

ようやく3週目に行くことができました。
東京から車で7時間近くでようやく気仙沼にたどり着き、久々の家族との再会しました。
家族はやはり疲れた様子でしたが、笑顔がそこにありました。
3週間はほんとに長かったです。
道中は順調で支援物資も無事に届けられました(支援物資のことは後でアップします)

後はもう東京で自分たちができることをするしかないです。
複雑な想いはありますが、それを言い訳にして休むわけにはいきません。
とにかくやりましょう。


幸町3丁目にある磯村さんです。
小さい頃にお風呂だけ借りたときがあります。


明日は兄弟で瓦礫の中から自分のもの探しを書きます。


気仙沼に行ってきました。

2011-04-05 08:14:27 | 震災関係
震災から3週間過ぎて、ようやく気仙沼に戻ることが出来ました。

生まれ育った街はそこにはありませんでした。

ここが仲町の交差点で左にコヤマ菓子店がありました。
もう跡形もありません。

百聞は一見にしかずといいますが、
テレビやネット、新聞では伝えることができないものがありました。
それは匂いです。
海と排水と重油と何かが腐敗している匂いがそこにありました。

潮風はそこにありません。
私は街並みと匂いに絶望を感じました。
何もありませんでした。

堆く積まれているのはコヤマ菓子店のガレキです。

全てが津波で失われました。

工場で使っていたミキサーや

ボールなどはそこら中に散らばっています。
3週間経ちましたが、ガレキの処理はまだまだです。
道路を作るために道路にあった家などは解体され、横にどかされているだけです。

まだ行方不明者の捜索活動は続いています。
道中で遺族らしき方たちが見つかったと声をあげ、
ガレキの中から毛布で覆った遺体が運ばれている光景を目にしました。
テレビなどの報道では復興、復旧という文字が出てきましたが、
現実はまだ全然進んでいないのです。

幸町3丁目付近です。
地盤沈下したため、高潮になると排水溝から海の水が逆流して、
道路に水がたまります。


気仙沼に行って、五感で現実を知りました。

そして、私たちがしなければならないことが見えてきました。

ネガティブに書いてしまいましたが、街で出会った気仙沼人は
これで負けてたまるかという目をしていました。
長期戦になります。
復興まで本当に長い道のりです。
頑張りを続けていきましょう。
どうにか続けましょう。

今日の夜に行ってきます!

2011-04-01 07:58:59 | 震災関係
今日の夜にようやく気仙沼にいきます。

車での9時間くらい?どうにか兄弟仲良くドライブします。

私には運転させてくれないので、助手席で助手的な立場でサポートします。
ちなみに寝たらその場で降ろすと言われたので
栃木県あたりの地図でも持っていこうかな。。。
もしくは福島あたり。。。。
まぁ、寝ませんけどね。

兎にも角にも行ってきます。
色々とほんとに色々と感じることが有ると思いますが、
Don't think Feelです。

ツイッターのほうで更新するかもしれませんので時間がある方は見てください♪
http://twitter.com/#!/GRASSHOPPER0529
一番好きなカクテルのグラスホッパーというアカウントです。

それでは、夜に行ってきます!