2023/10/09
ルイ王子(5)が、ウィンザー城で電動乗用玩具に興じているという。ウィリアム皇太子とキャサリン妃の次男であるルイ王子は100エーカー(約40万平方キロメートル)に渡るイギリス王室の私有地の庭で、監視付きでドライブを楽しんでいるそうだ。
ある関係者はザ・サン紙にこう話す。「フロッグモアガーデンズをレース場の道のように使えますし、完全にプライベートですからね」「女王はかつて乗馬や犬の散歩にその場所をつかっていました。現在アンドルー王子やファーギー(サラ・ファーガソン)がコーギーたちを連れてそこを訪れています)」「静かで人里離れているためルイには理想的な場所なんです」
また、ルイ王子の父親、ウィリアム皇太子もウィンザー城敷地内の移動に電動スクーターを使っているようで、今年になって別の関係者はこう明かしていた。「納得がいくことです。王(チャールズ国王)に会いに行く時は城を駆け上るんです。(家族が住む)アデレード・コテージからウィンザー城まで、往復2,3マイル(約3.2から4.8キロメートル)ありますからね」
一方、チャールズ国王は孫のジョージ王子、シャーロット王女、ルイ王子をできるだけ普通の環境で育てたいと考えているという。王室専門家のチャンドリカ・カウル氏はチャンネル5のドキュメンタリー『ザ・ファブ・ファイブ:ザ・キングス・グランドチルドレン』の中でこう明かしていた。
「チャールズ国王は、孫たちが、特に心の問題に関して自分がしてしまった過ちをして欲しくないと強く感じていると思います」「彼は幼い孫たちができるだけ普通に育ち、自分の感情を恐れず、自らが求める人間と結婚する自信を持ったより柔軟な人間になるために手助けをしたいと考えているのでしょう。そして幸せで、成功し、充実した私生活を送ってほしいと思っているのです」
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ナショナル ジオグラフィック日本版10/9(月)8:00
中世の英オックスフォードは「殺人街」だった、犯人は主に大学生
英国オックスフォード大学の学生にとって、中世は死と隣り合わせの時代だった。中世英国のほかの街と比べて、殺人を犯したり、惨殺されたりする確率が約3倍も高かったのだ。
9月28日に「中世殺人地図」プロジェクトにより発表されたこの驚くべき統計は、当時の法的記録に基づいている。殺人が多かったのは、若い独身の男子学生が多かったことと、凶器、アルコール、セックスワーカーが身近だったせいだと研究者は考えている。
プロジェクトの主任調査員である英ケンブリッジ大学の犯罪学者マニュエル・アイズナー氏は、中世の「検視調書」に記録された英国の殺人事件を調査している。最近まで、このプロジェクトは英国の首都ロンドンに焦点を当てていた。しかしこのたび、当時英国の主要都市だったオックスフォードとヨークを追加し、そこで起きた殺人のパターンも明らかにした。
アイズナー氏によれば、オックスフォード大学だけでなく、当時、ヨーロッパ本土の多くの大学で同じ問題が起きていたという。
「フランスのパリ、イタリアのボローニャなど、ヨーロッパ全土で学生の暴力に関する苦情が出ていました」とアイズナー氏は話す。「あちこちで特に学生が問題視されていました」
聖職者だった学生の殺人
当時、現代的な警察は存在しなかったため、殺人事件が起きるたび、地元住民から成る陪審員とともに検視官が調べ、責任ある者を突き止めようと試みた。中世の検視調書は英国最古の法的記録の一つであり、現在、研究者にとって重要な資料になっているとアイズナー氏は話す。
検視調書によれば、オックスフォードの殺人犯の75%、殺人被害者の72%が大学の学生や教師を意味する「クレリクス(学僧)」だった。
たとえば、こんな記録が残されている。
ウィリアムがアダムを捕まえて押さえ付けると、ウォルターが拳でアダムの頭を殴って地面に倒した。アダムが立ち上がると、トーマス・デ・ケティングが長いナイフでアダムの口元、さらには喉を刺し、すぐに同じナイフでもう一度刺した……アダムは翌日の夜中に息を引き取った。
学生アダム・デ・セイラム殺害事件、1303年3月25日
聖ニコラスの日を終えた日曜日、ちょうど門限のころ、デイビッドはウスターのクリスティアーナという「売春婦」を連れてスコレストレテ(学校通り)に行き、ある学校に入った。名前はわからないが、数人の聖職者(学生)がデイビッドを待ち伏せていた。彼らはデイビッドに暴行を加え、その暴行でデイビッドは負傷し、土曜日に死亡した。
大学に「売春婦」を連れてきた学生が殺害される、1296年12月22日
初期の大学は教会から資金援助を受けており、たとえ信仰がなくても、すべての学生が「下級聖職者」だったと、プロジェクトには参加していない考古学者のジュリアン・マンビー氏は説明する。そのため、殺人を犯した学生も「聖職者の特権」を主張し、コモン・ロー(普通法)の下で処刑を免れることができたとアイズナー氏は述べている。
なぜこれほど殺人が多かったのか
中世の英オックスフォードは「殺人街」だった、犯人は主に大学生
ロンドンの検視調書には(調書が存在する)1300〜1340年に142件、英国北部の貿易都市ヨークでは1345〜1385年の40年間に130件の殺人が記録されている。
一方、オックスフォードの検視調書には1342〜1348年のわずか数年間に68件の殺人が記録された。
オックスフォードの人口がはるかに少ないことを考えると、当時の殺人発生率はロンドンやヨークの約5倍だったとアイズナー氏らは推定している。さらに、これらの街の中世と現代を比べると、中世の殺人発生率は現代の約20倍だった。アイズナー氏らはこうした違いの一因として、現代のような警察や医療がなかったことを挙げている。
なぜこれほど殺人が多かったのか
オックスフォード大学の学生による暴力は主に10代男性の虚勢から生じたものだとアイズナー氏は分析する。大学生は14〜15歳で初めて家を出て、都会の下宿で暮らし始めることが多く、危険な行為に走る可能性が高かった。
学生のけんかは、民族問題や領土問題がからむと悪化しがちだ。例えば、ライバルがアイルランド、ウェールズ、スコットランド、あるいは、イングランドの北部や南部と、異なる土地の出身だったかもしれない。
また、皆が食事用の小さなナイフを携帯していた。つまり、全員が武装していたということだ。さらに、大きなナイフや剣など、戦いに特化した武器を携帯する学生もいた。
しかも、ほぼすべての通りに酒場があり、酒は簡単に入手できた。また、記録によれば、オックスフォード大学の学生同士の衝突には、中世の都市でよく見られた「売春婦」を巡るものもあった。
一方、ヨークで起きた殺人の多くは織物取引に関連するものだったと、プロジェクトの調査員の一人であるケンブリッジ大学の歴史学者ステファニー・ブラウン氏は話す。当時のヨークは毛織物産業が盛んで、ヨークの検視調書には手袋職人や帽子職人など、職人同士の殺人事件が記録されている。
繁栄していたヨークには、特に現在のベルギーとオランダを含む地域の外国人労働者も集まった。こうした移民は地元住民の罪を着せられることがあったかもしれないが、検視調書に載っている移民の数は、その人口から予想される数を逸脱していない。これは移民が社会の一員として受け入れられていたことを示唆しているとブラウン氏は分析する。
移民と英国人の間で起きた殺人事件も記録されているが、これは皆が同じ場所で暮らし、働いていたことを浮き彫りにしているとブラウン氏は付け加えた。中世ヨーロッパで移民がこれほど溶け込んでいたことは知られていなかった。
「殺人は社会的な関係です。衝突が起きる前に、当事者は互いを知っている傾向にあります」とブラウン氏は話す。
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