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主人の体は焼かれて醜い骸骨となった。私はその事実を目の前にしたとき、それはとても愚かだけれど、主人だとは認めたくなくて狼狽してしまったのだった。
しかし、肉の体が完全に滅びなければ、霊の体を受ける事ができないのだった。
あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。(Ⅰコリント3:17)
これは霊のことであろう・・。霊においてはイエス・キリストを信じ受け入れると同時に永遠に守られる。あえて否まなければだけれど・・。
イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」(マタイ24:1)
イエス様ご自身も私たちも肉の体は必ず滅びる。体も主の守りと祝福を現すことがあるけれど、それは執着するべきものではない。むしろ主の赦しの中で脱ぎ捨てるべき物である。
いかに健やかであっても、歳と共に古びて衰えてゆく肉の体。それは主を知らなければ呪いであっても、御国の約束にあるキリスト者にはむしろ、喜ばしい永遠への道のりなのである。
そうでなければ、人はみな敗北の中で死んで行くことになる。決してそうではないと思う。むしろ病も肉体の衰も、祝福の新しいいのちに着替えるための備えなのである。
人の体は弱く脆い土の器。それ故にその弱さの中に完全に働く主みわざを通して、幾度も助けを受け、謙遜にしていただいて主を味わい、新しく主にお出会いする舞台なのである。
私が主人の骸骨を見てたじろいだのは、主人の真実に思いが至らなかったからであった。今は、彼が新しい霊の体の望みの中に居る確信があり、私は心から喜んで居る。また、私もその望みの中で主の時を楽しみに待って居るのである。
私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。(黙示録21:22)