見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、道中あなたを守り、わたしが備えた場所にあなたを導く。(20)
すべては神より発して、より頼む者の上に神の備えによってご計画が成り、世界の隅々にまで増え広がって、神の栄光へと至るのである。
今、キリスト者には天に永遠の住まいがあり、ご計画により主が迎えに来てくださる日が備えられている。主は愛する者を永遠の住まいまで導くお方なのだ。
わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(ヨハネ14:3)
今、導きの聖霊はみことばを日々に解き明かして、盲目の者の霊の目を開き、道に迷うことがないように守っていてくださる。
あなたは、その者に心を留め、その声に聞き従いなさい。彼に逆らってはならない。 わたしの名がその者のうちにあるので、 彼はあなたがたの背きを赦さない。
しかし、 もしあなたが確かにその声に聞き従い、 わたしが告げることをみな行うなら、 わたしはあなたの敵には敵となり、 あなたの仇には仇となる。(21~22)
イスラエルは、モーセから語られる神のことばに従う時に、神の備えの地に入るのである。
何時の時代でも、人を介してみことばを伝えてくださるのは、それが最も人に易しいコミュニケ―ション方法だからである。
聴いたいみことばに従う者に神は味方であり、反抗する者には敵となられる。そのようにして、神はご自分のものを守られるのは昔も今も同じである。
わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをアモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導き、わたしが彼らを消し去るとき、(23 )
神の備えの地に入ってもその先住民と戦う必要はないのだ。神が彼らを消し去るとある。それが神のご計画だからである。
イスラエルに求められることは、主に信頼してその地に入って行く従順だけである。そのために神は多くの奇跡を彼らに見せておられる。その経験を覚えて安らぐことができるのである。
キリスト者の信仰生活にも、主に信頼してみことばに留まる時、必ず生きて働く御わざを経験させてくださる。それは、如何なる時も主に信頼して、明日を思い煩わないためである。
あなたは彼らの神々を拝んではならない。それらに仕えてはならない。また、彼らの風習に倣ってはならない。それらの神々を徹底的に破壊し、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。(23~24)
偶像に満ちている異邦人の地に入って行き、創造主のみを礼拝する地とするためには、偶像を破壊して偶像礼拝の跡を残さないように命じられた。それらがイスラエルの民の目に入って、誘惑されることが無いようにするためである。
今、キリスト者は聖霊の守りに在って地を治める者であり、うちに住まわれるキリストとの交わり日々に聴くみことばの守りがあれば、目にするもの耳にするものによって誘惑されることはない。
それゆえ一々偶像を破壊する必要などはなく、それらを心に留める必要も無いのである。
あなたがたの神、主に仕えよ。そうすれば、主はあなたのパンと水を祝福する。わたしはあなたの中から病気を取り除く。
あなたの国には、流産する女も不妊の女もいなくなる。わたしはあなたの日数を満たす。(25~26)
みことばはそのまま受け入れるものであり、信じたことばがみこころによって成就する。主に仕える者の霊、魂、体の必要は主が守っていてくださる。
それでも人は老いもするし一度死ぬ者であるが、聴き従う者にすべての時を用いてキリストの栄光を現わさてくださる。
命の時をお委ねして「この身に、みこころが成りますように」との願いを、主が聞いていてくださることは何という幸いであろう。
私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。(ピリピ1:21)
わたしは、わたしへの恐れをあなたの先に送り、あなたが入って行く先のすべての民をかき乱し、あなたのすべての敵があなたに背を向けるようにする。
わたしはまた、スズメバチをあなたの先に遣わす。これが、ヒビ人、カナン人、ヒッタイト人をあなたの前から追い払う。(27~28)
主に聴き従う者に先立って必要が備えられているのは、主がご真実だからである。人は何が最善であるかと心配ばかりしているが、神は一人ひとりの初めから終わりまでをご存じであり、みこころを行うための備えを明日のために持っていてくださる。
しかし、 わたしは彼らを一年のうちに、 あなたの前から追い払いはしない。 土地が荒れ果て、野の生き物が増え、あなたを害することのないようにするためである。
あなたが増え広がって、その地を相続するまで、少しずつ、わたしは彼らをあなたの前から追い払う。(29~30)
確かに主の備えは具体的で緻密であり、神の知恵に満ちてすべては完璧な備えである。
信仰生活の中で幾度も経験させてくださる勝利は、それらを振り返えった時に、その時は気付かなかったタイミングの緻密さや、備えられていた細やかなご配慮を悟るのである。
明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。(マタイ6:34)
明日を心配するのではなく、今日たまわっている労苦を主に信頼して生きて今日を完結する時に、主の備えてくださった永遠の住まいに歩んでいるのである。
わたしは、あなたの領土を、葦の海からペリシテ人の海に至るまで、また荒野からあの大河に至るまでとする。それは、わたしがその地に住んでいる者たちをあなたがたの手に渡し、あなたが彼らを自分の前から追い払うからである。(31)
創造主なる神が、ご自分の選びの民に地を定めて与えられた。すべては神の作品でありすべての権利は主にある。主が与えてくださった地を彼らは得なければならない。しかし、そこでも主が戦って与えてくださるのである。
世には私たちを支配して奴隷としようとするものが多くある。しかし主に信頼して聴き従う時、それらの敵とは主が戦ってくださる。みことばに信頼して、置かれた地に安息し主を宣べ伝えるのである。
あなたは、彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない。
彼らはあなたの国に住んではならない。彼らがあなたを、わたしの前に罪ある者としないようにするためである。あなたが彼らの神々に仕え、あなたにとって罠となるからである。(32~33)
主にだけより頼み主を礼拝する。いつでも何ものに対しても、どのような状況にあっても、世の出来事の一つひとつに反応する必要はなく、キリスト者は主に在って心を騒がせる必要がない。幼子でも出来る馬鹿の一つ覚えでよいのだ。
たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。(Ⅱコリント5:1)
今、キリスト者が天の御国に向かって歩む日々の中で、災いと思える事々に出会うことがあっても、それらすべてを通して主が備えて下さっている事柄は多くあり、信仰の深みに導かれて新しく主にお出会いする時である。
すべてのことは神の備えであって、世への警告となり招きの時である。漫然とした日々から引き出されて主を選び取り、信仰を告白するダイナミックなチャンスとなる。私たちには世にキリストに在る平安を証する時なのだ。