主はモーセに言われた。「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のもとへ上って来て、遠く離れて伏し拝め。
モーセだけが主のもとに近づけ。ほかの者は近づいてはならない。民はモーセと一緒に上って来てはならない。」(1~2)
創造主なる神は完全に聖なるお方であり罪を見過ごすことは出来ないのである。その神が罪ある人に寄り添って導かれるとき、人はいつ罰せられて命を失うかもしれない危険に在る。すべての権威は主にあり、聴き従わなければ死ぬのだ。
モーセは来て、主のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えた。「主の言われたことはすべて行います。」(3)
イスラエルの民は身を守るために賢い約束をした。
モーセは主のすべてのことばを書き記した。モーセは翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、また、イスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。
それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を主に献げた。(4~5)
主がこれから行われるイスラエルとの契約のために、モーセは定められた手順に従って備えた。そうして人の罪の代償、身代わりとしてのいけにえの雄牛を捧げた。
モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。
そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」(6~7)
民は素直な返事をしているが、契約を本当に聴き理解したのであろうか・・。ただ、形式に則っての言葉であることが後の行動に現れてくる。
神との関係を儀式にしてしまっては、どんなに賢い祈りをしても何の意味もない。それでは主を知ることはなく、何十年続けても其処には神の愛を経験する余地がないのである。
モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。 「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。 」(8)
この契約は、「これらすべての言葉に基づいて」という条件によって結ばれた契約である。
キリスト者が受けた血はキリストのあがないによる血である。動物の血は神の御前に出るたびに必要であったが、キリストの血はただ一度十字架で流され、信じるすべての者を永遠まできよめる完全な血である。
キリストの血に拠る契約は、一方的にたまわる恵みの契約である。キリストの救いを信じた人は神の御前に罪の重荷を取り除かれて、初めて経験する自由の中で「すべて主に聴き従います」と腹の底から叫ぶ。
それからモーセとアロン、 ナダブとアビフ、 それにイスラエルの長老七十人は登って行った。
彼らはイスラエルの神を見た。御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあり、透き通っていて大空そのもののようであった。(9~10)
彼らは神の御足下を見た光輝く主の臨在を・・。殺されることなく此処まで許されたのは、契約に在ってキリストに近くなったことによる。
「遠く離れて伏し拝め」と命じられていたが、彼らは感動のあまりすべてを忘れて喜んだのである。
神はイスラエルの子らのおもだった者たちに、手を下されなかった。彼らは神ご自身を見て、 食べたり飲んだりした。(11)
主を喜ぶ者はどんな時も拒絶されない。神々しい主を仰いで驚喜し、感動している人を受け入れてくださる。御救いを給わった者の有頂天の喜びを受け入れてくださる。
人が造り主を喜び過ぎることなんて無く、栄光に輝く主、唯一の力ある神に造られた感動、喜びこそ主に捧げるに相応しい礼拝である。
みことばを文字通りに受け入れるとき、御約束の天を夢見て、主にお出会いする喜びに心がふるえることがある。
それは、日々みことばを食する主の宴会であり、祈りによるお交わりの中にあって、そのときキリスト者は聖霊に酔っているのである。その目はみな天を仰いで望みに満たされ醒めることはない。