「今『奥さん』と言われたけれど、私はもう奥さんじゃないのにね。」
そんな愚痴とも付かない言葉を嫁さんに漏らしたとき、「じゃあ、カフサンって呼ぶの?」と返ってきた。
「カフサン?」一瞬その聞き慣れない言葉に戸惑ったけれど、それが寡婦さんであると気付いて吹き出した。
ウジウジとねじ曲がりそうな心に活を入れられたような、こ気味好い切り返しだった。その時は「カフサン」にはタジタジだったけれど、悪くないかも・・って今日は考えられた。
そんなふうに思えるのもここ数日薬なしで眠ることができるようになり、昨夜は熟睡できたからで、またずっと続いていた左足の違和感、気持ちの悪いしびれが消えて、昨日のウオーキングが楽だったなど・・、体の自由を取り戻しているからなのだろう。
「奥さん」は従順を学び、「寡婦さん」は自立を学ぶのかも・・。
夫婦は互いに不自由な部分を保っている。常に互いに気を遣って妻は夫による縛りを感じることも多い。でも、その縛りが完全に無くなったとき自由の魅力も無くなる。
そんなことを友人との交わりで話し合った。
それは、まるっきりキリストと私たちね。なんて・・
縛りは守りでもあり、完全な自由はすべてに自分で選択し責任を取ることを求められる怖さがある。でも、今私は主人の備えによって守られていることを感じている。残して置いてくれたものによって・・。
子供たちはまぎれもなく主人が私に残してくれたもの。そんなことは主人の生きているときには考えた事もなかったけれど・・。
また人付き合いの悪い私にも、色々な人との関係を残しておいてくれた。知らない人から丁寧な挨拶をされたりする時もそのようなことを感じる。
家も生活の必要のあれこれも主人が残してくれたもの・・、その中でカフサンも守られていた。その部分で主人はまだ生きているのだった。
相続手続きに原戸籍というものを取り寄せる必要があった。それは明治時代に毛筆で書かれたもので、聞いたこともない名前が沢山出てきて「ほ~っ」て感じだった。
でも、その見知らない人と私の子供達は繋がっており、孫にも繋がっているのだ。彼らもその血によって子孫の中に残されているのだと思った。
クリスチャンはアダム以来の人の罪の血筋を思う。それは紛れもない事実なのだけれど、神様の憐れみは、この滅びる身にさえも命の欠片を残し、その血筋の中で救い取るチャンスを待っていてくださるのではないかと気付いた。
そうです主よ。あなたの忍耐の故に、今主人がこの血筋から救われましたって・・。
クリスチャンの姉妹に「何を見ても思い出すことばかり・・」って話した時「それが供養になるのよ。」そんな言葉にちょっと驚いたけれど、その言葉に含まれる主人への優しさが感じられて心がホッとした。
言葉ことば・・ことばなる方主イエスさま・・言葉尻ではなく心なんだ。
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