昨日は油菜さんといちごさんが、遙々この田舎に尋ねて来てくださった。とても嬉しくて思わずハグしてしまった。
主人のことを「男前」と・・
私が主人のことを男前と言ったのは、最期まで頑張ってトイレに行こうとした気力のことだったのだけれど、彼女たちは、写真の中にいる主人に言ってくださったことが素直に嬉しかった。ほめてもらって良かったね~って。
いっぱい話を聞いてもらって、賛美をして、一緒に祈り、主を共に語り、喜びほめたたえて過ごした甘い時間だった。
「最期の時、私にも主人をそのように愛して過ごす力があるかしら・・」と不安を話されたとき、私が主人と過ごしたあの愛、あの力は私自身のものではなく、キリストによるものだったと話した。
確かに、恐れることなく疲れることなく大胆に愛する愛など、そんな行動力など、私は持ち合わせては居なかった。
しかし、家族をも愛しておられるキリストの愛が、私を通して家族の必要を満たしてくださったのだった。
私がそのことに気付いたのは主人が亡くなって後、その力が私から去ったことを感じた時だった。
主人を少しは愛し仕えたことに満足を覚えて、愛による行動力のない私もこれで少しは変わったのではないか・・と、愛深い人の夢を一瞬見たのだけれど、私は何も変わっていなかった。
でも、神さまの愛は絶えることがないからこれで良いのだ。いつでも私の必要に応じて備えてくださる。私が握り占めるならそれはきっと変質してしまうと思う。
上から賜物として与えられるそれだけが無償の愛、純粋なキリストの愛なのであって、人にはそれを管理することはできないのだから・・。
「自分を心配しなくてもいいよ。ただ、日々主の御前に居るだけで・・」とお話をしたとき、「本当にご主人は幸せね」と言ってくださった。
そう、キリスト者の家族はとても深い愛の備えの中に居るのだ・・、人には想像も出来ないほどのね。
今日は、入院保険の請求に必要な医院の領収書を紛失したことに気付いて、捜し物に時間を費やした。どうやら捨ててしまったらしい・・。私は時々こういうへまをやることがある。特に今は何事にも注意散漫だと自分でもわかってはいるのだ。
もう・・あきらめるしかないか・・とも思いつつ、やっと祈ろうと静まった。
「主が与えてくださる物なら、私がどれほど愚かでも必ず与えられる。主が与えないなら、私がどれほどしっかりしていてもそれは与えられない」そんな平安が来た。
狼狽えていた心がスッと落ち着いて、直後に来られたお客さまを平静に迎えることが出来た。
結局、「医院へ行ってことを話してみよう・・」と思い至って重い足を運んだ。ところがいとも簡単に「ああ、良いですよ。もう一度書いてあげますよ」と言われ、「困った時は何時でも此処へ来るといいですよ。」と言ってくださった。色々とお話しもして肩の荷が下りる思いだった。
イエス様はお優しい。
今は沢山の人を通してイエス様の愛にふれている。その備えもイエス様の執り成しによることだと私は知って居る。常に必要を満たしていてくださる主だから・・。
愛はキリストによって与えることが出来るもの。そうして、弱さの中で愛を受けるときもキリストの香りがする。
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