子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。(1~3)
子どもが両親の言葉に従うことは、初めに神の定められたことである。その言葉に従う子は忍耐することを学ぶ、自分の願いが理解されることを、従順の中で待つことが出来るようになる。それは、家族を愛して幸せな将来を築くための土台となる。敬うとは、その人の言葉を大切にすることであるから。
キリストは神であられるのに、「神のあり方を捨てられないとは考えず、」(ピリピ2:6)天に在って支配する神の立場を捨てて、仕えるものとなって地にくだってくださった。
この恵みによって救われた私たちは、キリストに似る者とあらゆる立場において訓練を受けて、染みも傷も無い者へと成長させてくださるのである。
父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。(4)
子は両親に従い、父はみことばに従順して聖霊の助けの中で育てて行く。そこには気まぐれな指導によって子供を混乱させたり、怒らせるようなことはなく、永遠を貫くみことばによって、時流に振り回されない確かな道を指し示すことができるのである。
良い時も悪い時も、神の備えの中で成長する彼らは、神の平安を経験しているのだ。
奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、
人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。(5~7)
主に在る奴隷は、わずかの間は世の自由を楽しむことができなくても、やがて、目の涙をすべて拭われる天に迎えられ、主人と共に神の一つの家族とされて、永久までも共に神に仕える喜びを味わうようになるのである。
神に仕えるように主人に善意を持って仕えることが出来るのは、先に望みを持っているからである。それは奴隷であっても、自由人であっても、私たちは誰かに仕える者であり同じことである。
良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。
主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。(8~9)
「彼とあなたがたとの主」とある。卑しめられている人も、高貴な人も共に神の作品である。天に入れば、永遠を共にする一つの神の家族である。
このことは人を差別すれば、やがて神とその人の前でどれほど恥ずかしい思いをすることになるだろう・・と思うのである。
キリストが来られたのは仕えるためとあり、たまわった祝福の長生きの中で、キリストに倣って仕えることを学び続けるのだろう。
私たちはキリストの十字架の血によって買い取られた、祝福の奴隷である。私たちの家族はその恵みを日々味わい、絶えざる感謝のうちに仕え合う喜びをも分かち合って、うちに居られるキリストを共に経験して行のである。