彼らが会見の天幕に入るときには水を浴びる。 彼らが死ぬことのないようにするためである。 また、彼らが、主への食物のささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、
その手、その足を洗う。彼らが死ぬことのないようにするためである。これは、彼とその子孫にとって代々にわたる永遠の掟である。」(20~21)
手のわざ、足が踏んで来たものすべての、良いこと悪いことも洗い清めて、新しくされて神の御用を務めることが出来るのだ。仕える祭司には繰り返し繰り返し洗う必要があった。
其処にあって、今も変わらない聖さはみことばに忠実ということであり、それが永遠の掟である。
たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」(ヨハネ13:5.10)
イエスは十字架に掛かられる前夜、弟子たちが聖められてあることを知らせるために、足に触れて洗い言葉にして、ユダ以外の弟子は聖くされていることを宣言された。その聖さは、ただ一度洗われたことによって完成するのである。
キリストに洗われた者は聖霊によって導かれ、真っ直ぐにみこころを行うための必要が備られたのである。聖い確信がなければ人は何も出来ないのである。
キリストがみことばに在る者を、聖いとしてくださることによりキリスト者の備えは完全となる。
あなたは調香の技法を凝らしてこれらを調合し、聖なる注ぎの油を作る。これが聖なる注ぎの油となる。(25)
神にどのような香りを捧げるかは、かっては優れた人の技法によるものであったが、今はキリストよって導かれた働きだけが、混じりっ気のない捧げものなのである。
神が評価されるのはキリストだからである。今、私たちの祈りはキリストを通して神に届けられ、それは最上の香となる。
こうして、これらを聖別するなら、それは最も聖なるものとなる。これらに触れるものはすべて、聖なるものとなる。(29)
あらゆる世の流行や時勢への賢い選択は、世に溢れるツールによって人の心を揺さぶり、生まれながらの感情を満足させて、賢そうな言葉は耳に心地よい言葉となる。
そのとき変わることのないみことばは、岩のように頑なだと退けられ、従順して知るみことばの甘さは、彼らは永遠に味わうことがなく、食べて実るいのちも無駄になってしまうのだ。
それゆえ、神は助け主なる聖霊を信仰者のうちに遣わし、世の賢さには違和感を与え、みことばに堅く留まることを助けて守られる。聖霊に導かれなければイエスを知ることがないのは、人は自分を信仰していて、みことばにへりくだることが出来ないからである。
被造物はすべてキリストによって造られたゆえ、キリストを汚すものは存在しない。如何なる罪人であっても、信仰をもってキリストに触れた者はみな聖くなる。罪の女がキリストの御足に口づけして涙であらい、髪の毛で拭ったとき彼女は聖くされた。
キリストの足を洗おうともせず、触れようともしなかった宗教家には得られることの無い永遠の祝福である。
世の汚れに留まっているなら罪人で終わり、自分自身の善きことも悪しきこともすべての裁きをキリストに委ねる者は、永遠まで通用する聖さを頂くのである。
それは、キリストが十字架で支払ってくださった罪のあがないは、過去、現在、未来に至るものだからである。
それゆえ、キリストの周りには罪びとと言われる人々が集まって来た。彼らがキリストを恐れなかったのは、キリストが裁く方ではなく、救う方であることを近しく見たからである。罪人を赦して受け入れ、傷を癒やして立ち直る力を与え、みこばの力を示して罪から解き放ってくださることを見ていたからである。
罪人を癒やしてきよめ、神の子とすることが父なる神のみこころなのである。赦された者は誰から責められようとも恐れずに、たまわった聖さの中でキリストの救いを証しするのは、救いの喜びのゆえなのだ。
キリストが、罪を悲しむ人々を赦すことが出来るのは、ご自身がその罪を十字架で負って罪の代価を支払われるからである。
それゆえ、赦された者はキリストが負ってくださった十字架の痛みを、その身に覚えつつも感謝に溢れて御足跡に従って生きることを願う。祝福のみことばを聴き続けて、みことばに留まる戦いの中で、安息して生きるのである。