あなたは調香の技法を凝らしてこれらを調合し、聖なる注ぎの油を作る。これが聖なる注ぎの油となる。
あなたはアロンとその子らに油注ぎを行い、彼らを聖別して、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。(25~30)
彼らの選びは神に在り、人はみな神の選びに従順して祝福を受ける。彼らが人の目にどのようであろうとも、神の選びに拠り完全な祭司である。
あなたはイスラエルの子らに告げよ。これは、あなたがたの代々にわたり、わたしにとって聖なる注ぎの油となる。
これを人のからだに注いではならない。また、この割合で、これと似たものを作ってはならない。これは聖なるものであり、あなたがたにとっても聖なるものでなければならない。(31~32)
聖なる油はからだに注いではならないとあるから、神から着せられた祭司の装束に注がれたのであろう。からだは絶えず変化して土に返るものであり永遠ではないからである。神のことばは永遠に変わらない聖別のためのものである。
すべて、これと似たものを調合する者、または、これをほかの人に付ける者は、だれでも自分の民から断ち切られる。」(33)
似たものはすべて人の考えから出たものであり、付け加えたり差し引いたりすることで、分かりやすくなり優れているようであっても、それらは神から発したものではない故に汚れているのである。
みことばに安息しないことは不従順であり、人がどのように感じようとも汚れである。主への捧げものはより良いものなのではなく、聴き従って安らぐ幼子の心である。みことばはすで完成しているからである。
主はモーセに言われた。「あなたは香料のナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香と純粋な乳香を取れ。これらは、それぞれ同じ量でなければならない。
これをもって、調香の技法を凝らして調合された、塩気のある、きよい、聖なる香を作れ。(34~35)
今それは、御父、御子、聖霊を求める祈りの香であり、創造主を讃える賛美ではないか・・、永久のいのちの望みを喜ぶ霊の歌であり、聖霊の宮とされたキリスト者のうちにあって、絶えることのない祈りの交わりを、捧げ続けることである。
また、その一部を打ち砕いて粉にし、その一部を、わたしがあなたと会う会見の天幕の中のあかしの箱の前に供える。これは、あなたがたにとって最も聖なるものである。(36)
聖霊に導かれるみことばによって砕かれた魂こそ、神に喜ばれる捧げものであり、それがキリストに拠って捧げられること以上に神を満足させるものはないのだ。
その割合で作る香を自分たちのために作ってはならない。 それはあなたにとって、主に対して聖なるものである。これと似たものを作って、これを嗅ぐ者は、自分の民の間から断ち切られる。」(37~38)
みことばに似た教えや格言などは世に溢れていて、それらは人の感情に分かり易く出来ているが、どれほど心を揺さぶる名言であっても、またみことばにそっくりであっても、仮に犠牲を伴った言葉であろうとも、神の栄光を現わさないものが永遠に至るいのちを得ることはない。
キリスト者が聖霊によって聴くみことばは、生きて働く神の力であり、従順によって神の命じたままを成し遂げる。すべては神から出て、神によって備えられ。神の栄光を現わして神に帰るのである。
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。(イザヤ55:11)