キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。(1)
キリストに在って肉の死を通った人は、もはや世の罪との関わりを絶たれている。死体は罪を犯さないが、死に切れない肉は藻掻くのである。
このことはみことばを信じる今、魂の居場所をみことばによって知っていることが必要であって、キリスト者の武装は、みことばを聖霊の導きによって知ることである。
こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。(2)
その人はもはや、キリストの奴隷として十字架で買い取られてあり、聖霊の守りによって肉の欲望には敵対し、神の平和に安息しているのである。それは人の努力でも苦闘でもなく事実である。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。(ローマ6:6)
彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。
彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。(4~5)
救われたキリスト者は世のすべてを過ぎ去らさせて、キリストによって新しく生まれた者。キリストの肉において死を経てた者であり、霊は神の子であって世の者ではない。
世の評価に身を委ねる者ではなく、世と戦う者でもない。自分自身に関するすべてを、主に依存している者である。
というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。(6)
福音を受け入れて死んだ人は、人の評価にはよらず、神にあって永遠に生きる者とされた。十字架の救いのことばを信じるなら、その古い体は滅びても、霊は神のもとに永遠に生きる。また、完全な霊のからだをたまわるとある。耳の不自由な息子には賛美を捧げるからだであれ。
そのいのちは、ただ、ただ、永久まで神を喜び、ほめたたえるためのいのちである。
万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。(6~7)
祈りは私たちを知るキリストから出て来て、キリストによって神に届く。心がキリストに在るなら、いつでもみことばに耳を澄ませており、三位一体の神のおられるキリスト者には、それは格別なことではなく、寝ても覚めてもそうなのである。