隣人に何かを貸すとき、担保を取りにその家に入ってはならない。
あなたは外に立っていなければならない。あなたが貸そうとするその人が、外にいるあなたのところに担保を持って出て来なければならない。(10~11)
何という細やかな主のお心遣いであろう。人にはどんなに貧しくても決して手元から離せない物があろう。それを持って行かれるときの心の傷は、飢えや渇き以上の痛みを覚えるであろう。
キリストは言われる。
「もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」(マタイ19:24)
金があることは悪いことではないとこの個所で付け加えられることがあるが、金持ちは神の助けがなくても出来ることが多くあるのだ。彼らは病気になれば優秀な医者を探し、最高な医療を求めるであろうし、問題が起これば良い弁護士を雇う。彼は金がある故に神を第一に思わず、自分の力で自分を救おうとするのである。
主が見ておられるのは世を支配している権力者ではなく、世に名の知れた賢い学者でもなく、尊敬されている正しい人でもない。主が来てくださるのは侮られている愚かで弱い者であり、貧しく弱っている病人であり、罪を後悔して嘆く罪人であり、思った様に生きることが出来ずに救いを求めている人の所である。
キリストは、より頼むべき救いの手段を持っていない者を可哀そうに思ってくださる。しかし主は人がそのような弱さを持つまで、待っていてくださったのである。救いは求める者にしか与えることが出来ないからである。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マルコ2:17)
神は豊かに富んでおられすべてを創造し支配しておられるお方。そのお方がまるで貧しさを経験されたかのように弱い者の心に寄り添い、壊れないように予め守りを備えられたのは、世では取るに足りない者をも、御子をたまわるほどに愛しておられるからである。
もしその人が貧しい人なら、その担保を取ったままで寝てはならない。
日没のころには、その担保を必ず返さなければならない。彼は自分の着物を着て寝て、あなたを祝福するであろう。また、そのことはあなたの神、主の前であなたの義となる。(12~13)
上着を着て休まないと夜の寒さに震えなければならないのだ。貸し与える者はその上着がなくても何の不自由もなく、命令は主に従うという義を行うことになり、返した相手からは祝福を祈られることとなり、感謝なことなのである。
貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地の、あなたの町囲みの中にいる寄留者でも虐げてはならない。(14)
イスラエルに対す主の命令が寄留者に対しても寛大であることは、彼らの徳となって末永く彼らを守るであろう。イスラエル人には富豪や銀行家が多いと聞くが彼らは、主の戒めに対してどのような方々なのであろう。
雇人に良くしてやることで雇人との関係が良いものとなり、働きが裏表のないものとなって繁栄に繋がって行くことになる。まして、それが神への従順から出たことであるなら猶更に・・。
その人の賃金はその日のうちに、日没前に支払われなければならない。彼は困窮し、それを当てにしているのだから。彼があなたのことを主に訴えて、あなたが罪責を負うことのないようにしなさい。(15)
一日ごとに生きる他ない時もある。今日をどう生きるかというほどの貧しさや苦難の日もある。しかし主は言われた。「明日のことは明日が心配します」このような時は一日ごとに生きて行けば良いのだ。
私が子供の頃、田舎ではまだ節季払いという働き方が普通にあった。賃金は盆と年の暮れに支払われるのである。労働者の生活も半年ごとの付け払いで、名前が書かれた通い帳を持って商店に行き、半年間買った物と値段を記入して貰うのである。それは信用がなければ成り立たない商法だけれど、時が良くても悪くても半年間はのんびりとしたものであったろう。
今は日払いという働き方もあるというが、こんな昔をふっと思い出した。