ラバンはヤコブに言った。「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもないだろう。どういう報酬が欲しいのか、言ってもらいたい。」
ヤコブはラケルを愛していた。それで、「私はあなたの下の娘ラケルのために、七年間あなたにお仕えします」と言った。(15.18)
七年後に婚宴は開かれたが、ラバンは夜の闇に紛れて姉のレアをヤコブに与えた。ヤコブは暗がりでラバンにあざむかれた。ヤコブは此処でラバンを訴える資格はない。
それは彼が目の衰えた父イサクをあざむいたように・・。このことはヤコブに対する神の訓練である。
神が祝福する者に対して、罪の赦しと訓練が対になっているのは、神は愛する者の問題点をそのままに放置されることなく、御手のうちに置いて矯正されるのである。
それは、拒絶ではなく祝福のうちにあることゆえに、レアからも彼の多くの子孫が産まれ出る。
ただ、人は暗闇に事を進めるべきではない。主の光の中ですべてのことを成すなら、そこではあざむくことも、あざむかれることも起こらないのである。
イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)