この婚礼の一週間を終えなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげよう。その代わり、あなたはもう七年間、私に仕えなければならない。」
そこで、ヤコブはそのようにした。すなわち、その婚礼の一週間を終えた。それでラバンは、その娘ラケルを彼に妻として与えた。
ヤコブはこうして、ラケルのところにも入った。ヤコブは、レアよりもラケルを愛していた。それで、もう七年間ラバンに仕えた。
主はレアが嫌われているのを見て、彼女の胎を開かれたが、ラケルは不妊の女であった。(創世記27~28.30~31)
サラも、リベカも、ラケルも不妊の女であった。神の選びによる三世代の妻が不妊であった。彼女たちも神の祝福にあり、その血筋が神のご計画に絶対に必要であるにも関わらず・・である。それはいかにも不自然である。
神のご計画があれば豊かに子どもにも恵まれるはずであるが、不妊ゆえにサラとラケルは悩み、人間的な遣り繰りによって心をかき乱される経験を通る。
自然に生まれる子ではないことは、神の特別な関与が必要ということである。夫と共に願い求め、みことばに信頼して待つというプロセスを通らされるのである。
それは、神への信頼を深めて行くことであり、生まれた者が、神の深い関与の内に生まれた者であることをわきまえるためである。
サムソンも、バプテスマのヨハネも不妊の女から生まれ、彼らは生涯を通して神のご計画を全うした。
信仰生活では、約束のみことばに矛盾するような試練を通ることがある。そうして、みことばの約束の成就を何十年も後に見て、深い感謝に導かれるのだ。
信仰を支えてくださるのは、みことばに留まることを導く聖霊である。試練の日々には神により頼むお交わりがあり、そこで細やかに備えられた主の助けを経験する。
しかし、マリヤは願うことさえ思い浮かばない時に、神が人となられたイエスを身籠った。最も良きものはある日突然にたまわる。それはもっとも聖なるものである。携挙もこのようであろうか・・。
しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。(1コリント2:9)
血筋には拠らず、聖霊によって生まれた異邦人の私たちは、キリストによって罪を洗いきよめられ、聖霊に満たされた日々にみことばを教えられ、それを生きることを導かれる。私たちは、自分が何者であるかを覚えることによって、救い主のみこころに導かれて行くのである。