人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。(ヨハネ12:2)
イエスさまの奇跡は実にさりげなく、私たちの日常に混じっている。死人がよみがえるという途方もない奇跡が、普通に溶け込んでしまうのだ。
確かに我が家も、そんな奇跡を何度も何度も経験している。苦しいはずの暮らしが何ということもなく普通に過ぎていたり、困難な問題が自然に解決してしまったり、重い荷物を背負う覚悟を決めたとたんに、背負う必要がなくなってしまったり・・。
それらの奇跡は、いきさつを証しすることもできないほど自然に、いつの間にか私たちの日常を過ぎて行っていた。
イエスさまの奇跡は後で振り返った時初めて気付くことのほうが多い「あれっ、いつの間にかあの問題や困難が過ぎてしまっていた。」って・・そんな感じ。
ただイエスさまを見上げている間に、ただ、みことばに止まっている間に・・、
「傘地蔵も来ないのに、何の困ることもなかった。」なんて・・よく笑った。
このような卑近な出来事も、ラザロのよみがえりのようなすごいことも、主には同じ事ではないかと思える。
すべて主の憐れみに拠ることだから・・。
だから、イエスさまのわざを闇に葬ることはとっても簡単なことである。感謝を忘れて時が過ぎてゆく中に、それは埋没してゆくから・・。
祭司長のようにイエスさまとラザロを殺そうなどと計画する必要もないほど・・。
どうぞ、神に栄光を帰すことができますように。
どうぞ御名が崇められますように・・と祈ろう。
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