聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。
あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。(4:13~14)
神から与えられている「今」という時間を何に使うのか。何に将来を託す計画を立てているのか。それが今日どのように生きるかということである。
この世で築いたものは一切この世限りで終わり、この世で神の義に逆らった事実だけが残って、死は人を神の裁きの場に引き出す。
この世の名誉を持って永遠のいのちを買い取ることはできない。神の裁きの時に、とりなしてくださるキリストと共に居ることが、唯一永遠の滅びの裁きから免れることである。
今は、神からの永遠の処罰を受けるか、滅びることのないいのちを受けるかという、とんでもなく貴重な切迫した時間なのである。しかもそれは愛する家族を巻き込むことである。
神はそれが誰であっても、キリストを求める熱心をないがしろになさらない。喜んでこの世に在る間も守りの中に置いて、子として祝福してくださるお方である。その信仰の決心によるわずかな間の試練を恐れてはならない。
見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。(5:11)
ヨブは、信仰の欠けによって激しい苦しみを通った時も、神に信頼して御前に留まり続けた。キリストを求めて御前で叫び続けた。
神と格闘するようにして、自分の心の内をさらけ出して救いを求め、神との交わりを迫って、彼が以前に倍する祝福を賜ったのは、その信仰に神が報いてくださったからである。
死ぬ体を持って人となられたキリスト以外に、罪無く完全に神に従順できる人は居ない。その足りない部分をあがなってくださる方を求める忍耐を、神は私たちの信仰と認めてくださる。そうして、私たちの願いをキリストに在って満たしてくださる。
私たちがすべてを求めて安らぐ所は主の御前であり、自分の欠けを持ったまま、その情けなさを抱えたまま、一途に求めるのは永久までも神と共に居ることである。完全な者が救われるのではなく、キリストを求める者が救われるのである。