サタンは神の祝福にある者を狙うなんて嘘であり、それは脅し。サタンがなぶりものにするのは、神も神のことばも知らないユダである。みことばの備えのないクリスチャンである。
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:39)
生ける神も、生きて働く神のことばも知らないから、サタンに振り回され脅されるのである。主の祝福の中にいる者には手を出すことは出来ない。なぜなら、三位一体の神がうちにおられるからである。
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ41:10)
十字架はサタンの勝利のようであっても、神さまのご計画の完成である。主に在る者に起こるすべてのことは、良い方の良き計画の途上にあることであって、たとえ人の目にどのように見えようとも、主の祝福の中にあるのである。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(詩編23:5~6)
マリヤは戸惑っても恐れて逃げだしたりはしなかった。不義の恥も死も嘲りも覚悟の上で神の御子を受け入れた。
彼女はシメオンから、イエスが負っている神のご計画を聞いても、すべてを祝福と真っ直ぐに受け止め、十字架の側ででも、聞いた言葉を思い出して堅く立っていた。
シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」(ルカ2:34~35)
みことばは人の心の底に沈んでいる罪を掻き立て、目を背けていた罪を露わにして悔い改めに導く。
そのとき、傲慢はことばなる方をを指し貫いて殺すのだ。積み上げてきた偽善を根底から覆すからである。「多くの人の思いがあらわれる」のだ。しかし、それは神さまの祝福の始まりである。
恐れる者を神さまは用いることはできない。恐れてタラントを埋める者はすべてを取り上げられる。
ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。(ヘブル2:1)
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