ヤコブはアラム人ラバンを欺いて、自分が逃げるのを彼に知られないようにした。(20)
夜逃げのような旅立であっても、此処には先立つ主がおられるのだ。人の目にどう見えるかではなく、主が共におられることこそ信仰者の義である。
ラバンは身内の者たちを率いて、七日の道のりを追って行き、ギルアデの山地でヤコブに追いついた。
神は夜、夢でアラム人ラバンに現れて仰せられた。「あなたは気をつけて、ヤコブと事の善悪を論じないようにしなさい。」(23~24)
神がヤコブの味方であることを知らせ、人の正しい言葉によってヤコブが追い詰められることが無いように、神はラバンの口を封じられた。
「義人はいない一人もいない」と神は言われる。完全な人は一人もいないゆえ誰であっても、罪をあがなうキリストの十字架が唯一の救いなのである。完全な聖であられる神は、罪の大小で問われるのではなく、有無を問われるからである。
ラバンはヤコブに追いついた。そのとき、ヤコブは山地に天幕を張っていたが、ラバンもギルアデの山地に身内の者たちと天幕を張った。
ラバンはヤコブに言った。「何ということをしたのか。私を欺いて、娘たちを、剣で捕らえられた者のように引いて行くとは。
なぜ、あなたは逃げ隠れて私を欺き、私に知らせなかったのか。タンバリンや竪琴で喜び歌って、あなたを送り出しただろうに。
しかもあなたは、私の孫や娘たちに口づけもさせなかった。あなたは全く愚かなことをしたものだ。(25~28)
ラバンのもっともらしい責め言葉は、嘘や偽りの言葉を弄して恥じることがない。人は必ずしも義によって不義を責めるのではない。
イエスを訴えて十字架刑に定めた言葉は、人間の不義をもって唯一の聖なる人を殺した。
そのキリストの死と復活によって、信じる者に神の完全な義を頂いたのである。このことは神が世の初めに計画してくださったことである。
キリストのあがないを信じる者は、神の罰から解かれきよい神の子とされ、永遠のいのちをたまわる。
すべての人がこの事実を受け入れるなら、キリストの十字架のあがないは完璧であり、信仰よって救われたその人はキリストの喜びなのである。
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31)