弟子たちは普通の人が選ばれた。主は普通の人を選んで従順の中で育ててくださる。
マタイは取税人であり、その職業は誤魔化しや不正が横行するものであった。ペテロは軽はずみでおっちょこちょいであり、ヨハネは切れやすくい雷の子と呼ばれ、トマスは疑い深かった。ユダには盗癖があった。
パウロはキリスト者を激しく迫害する者であった。
イエスご自身がナザレの田舎大工の子として、ごく普通の暮らしの中に来てくださり、弟子たちはさまざまな欠点や弱点を持った人であって、そこには学者も宗教者もいなかった。
パウロは血筋にも学問にも優れていたが、それらの世の誇りを塵芥と捨て、罪びとの頭と称してキリストに身を捧げ尽くした。
キリストによって世から足を洗いきよめられ、十字架の血であがなわれて、助け主なる聖霊に導かれ、教会を建てあげるためのすべての必要、資質を主に満たされた人たちであった。
使徒たちは、殉教に至るまで完全にみこころを成し遂げる、言葉も行いもキリストに似た者と育てられて行った。それは彼らがキリストを愛して、自分自身を明け渡した結果である。
弟子の条件は育てられる謙遜と従順である。ユダはそれを選ばず罪に留まり滅びの子となった。
選ばれた者に求められるものは、神への愛の応答である。それは失敗や弱さを覆われる交わりの中で、育てられる関係であった。
その信頼関係の中に安息する時、みことばに在る神の力を受けて、世を恐れる必要はなくなり、ただ聴いたみことばを時に叶って行い、うちに居られるキリストのことばを語るようになる。
世と戦うことはしない者が、祈りによって世に関わる者となり、祝福を祈っていても迫害を受けるのは、たまわったみことばをそのままに語るからである。それこそキリストの御足跡を行く者だからである。
どんな時も、その問題の中で育てられることを選ぶなら、キリストから流れる信仰は、すべてのことが備えられていることを経験する。まるで、一本のレールの上を駆け抜けるように、それらは容易なこととなる。
そう、御国に向かって真っすぐに世を駆け抜ける、キリストが敷かれたレールである。
わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。(ヨハネ10:27~28)