教会ではみことばを始め、互いに色々と教えられたり教えたり、礼拝で顔を合わせることが楽しみで信仰の励みとなったものだった。
主の恵みの分かち合いで、祈りが応えられた証を聞いた時は、同じイエスさまを信じる者として主への信頼を増していった。主が良くしてくださったことを一緒に喜んで欲しくて、証する日を待ちかねた事もあった。
ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず。むしろ励まし合いましょう。その日が近付いていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。(25)新改訳2017
「習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず」とあった。いや、習慣に倣って集まるのではないか・・と思ったが、教会の集まりを止める事も、守ることも、それが単に習慣に倣ったものなら、その心はどちらも同じことだと気付いた。
世のことにおいては、良い習慣を無意識に続けることは良いことであっても、主を礼拝する祭司が、習慣によって仕事をこなすように主を礼拝?するなら、それは命の主に対してなんと冷たい心であろう。それが御子の命をたまわった神さまへの捧げものなら、なんという霊の鈍感だろう・・。
教会でみことばを口にしたとき、シラッとした空気を感じたことがある。だから、聖霊のこともみことばのことにも口を閉ざすようになった。
ただ、世の仕組みに合わせたやり繰りや、命の心配が語られる時、その儀式の中は家に一人で居る時よりも淋しいものである。
主を礼拝するところは、主の霊が充満する宴会場であるはずなのに・・、試練の時にも主を喜ぶ喜びと、恵みのみことばが飛び交う所であるはずなのに・・、生ける主のことばが流れてこないと疲れ果て、不信仰な言葉を聞く時逃げ出してしまうのだ。
今の、主の時が近い緊張感の中では、時間は重さを増していよいよみことばに飢え、聖霊に渇いて激しく求めるようになる。
もちろん、心を合わせて祈る霊の家族と一緒に、主のご用をさせて頂けることが主のみこころだけれど、それは主にたまわるとても楽しい時だけれど、世にあっては淋しさに耐えることもあるのだろう。
「主よ。来てください。」
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1:23)