キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」(5~7)
神さまが望まれた捧げものは、御子の聖なる従順による捧げものであり、神の満足は、御子が神によって造られたからだを、人の罪のあがないのために十字架で裂いて捧げられたことであった。
イエスさまの満足は御父の喜びにあり、御父の御計画の完了によって、信じる者は義とされて救いが完成したことであった。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。(イザヤ53:11)
キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。(14)
人は神の愛の御計画によりキリストを通して救われ、いよいよ神さまの愛を知りたいと願い、知るうちに深い感謝と感動をもってキリストの従順を学び、みことばによって豊かに満たされるいのちを生きる者となった。
御父と御子が完成してくださった御救いに、人が何を付け加えようか・・、御交わりに子として迎えられた聖なる関係に、何を持ち込むことができようか。
ただ、御声に聴き入るのみである。霊の内に一日中流れているみことばは、やがて充満して溢れ出すようになる。
私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。(19~20)