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イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」
イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。(ルカ5:12~13)
今、イエスさまはキリスト者の内に住んで居てくださる。御手で触れてきよくし共にいてくささる。イエスさまを汚すものは何も無く、イエスさまに触れられた者はすべては聖とされる。十字架の血潮によることである。
それは罪に根ざした病を癒し、罪から解放して人の心を健やかにする。人は健やかなら何でもできる。何処にでも安息して住むことが出来る。
すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」(ルカ5:30)
罪ある人の中に来てくださるイエスさまは、其処をきよめて住んでくださるお方である。その時人は、創造された初めの健やかさに触れるのだ。いのちは喜びと平安を知り、主の食事を心から楽しむことができるようになる。
日々みことばを楽しみ味わって食し、豊かな聖霊の飲みものを飲む主の宴会である。
イエスは彼らに言われた。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」(ルカ5:34~35)
今はもう主は取り去られない。永遠まで共にいてくださり喜び続けることができるのだ。
心は罪を犯し続けるものだけれど主はきよめ続ける力である。すでに罪はその棘を抜かれ、キリスト者はその支配下にはいない。