毎日ヨナ書を読んでいる。同じ箇所に留まって動けないで居る。
「私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。」(ヨナ4:2)
神様に命じられてもニネベの救いを願わないヨナは、逆らって逃げている間も、大嵐の船の中でぐっすり眠ることができた。彼は主を知っていたからである。
そう、主が良い方であって味方であることを知る者には、どんな時にも変わらぬ平安があるのだ。
ヨナは自分を海に投げ入れることで嵐が静まる水夫に伝え、海に投げ込まれると嵐は静まった。
神様は、ヨナを嵐の海から大魚の腹に移された。
天地を創造され、すべての生きるものを造られた御方にとっては、大きな魚を備えてヨナを飲み込ませ、その腹の中で生かすことに私は何の不思議も感じない。
おとぎ話のようであっても、みことばを幼子のように、文字通りに信じることに人の聖さはある。
ひとつのみことばを受け入れないことは、神様を自分の理解の中に作り直すことになる。それは汚れたことである。
ヨナはたとえ罰せられるときも、主は敵ではなく憐れみ深いお方であると知って居た。悪の栄えるニネベでさえも救おうとされるのだから・・。
神様をどのようなお方と思うかで、神様と私たちの関係は決まる。信じていることが成るのだ。
神の愛を信じないから憐れみを制限してしまう・・、信じないから持っているものまで取り上げられてしまうのだ。そこには神様のがっかりがあるのだ。
ヨナの叫びに対して、ニネベは王から家畜に至るまで断食をして悔い改めた。神様の備えがすでにあったのだろう。福音を伝えるときも、先立つ備えがなければ人は動かないものだ。
でも、ヨナにはそれは不愉快であった。そのことをヨナは主に隠さない。自分の不愉快も不機嫌も隠すことのないヨナである。
霊的とか、魂的とか主の前に別けようとすることがあるけれど、そんなことは関係ないのかな・・って、ヨナ書を読んでいて思った。どんな肉的なことであっても、そもそも隠せるお方ではないのだから・・。
神様はそんなヨナの機嫌を取ろうとするほどに深く関わってくださった。
「わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」(ヨナ4:11)
家畜の命を惜しまれるという記事は新鮮だった。これまで私はこう言う記事を見たことはなかったから・・。
ニネベの布告に、家畜にまで断食が行き渡っていたことにも関連があるのだろう。主は報いて顧みてくださるお方なのだ。
ニネベの12万人の救いという、大きなご計画はひとりの人ヨナを通して完成される。
しかし、主にはもうひとつのご計画があったように思えた。それこそヨナとの交わりなのではないか・・。
ヨナはニネベで名声を得たとか、救いの勇士とかそのような記事はない。ニネベの人々はひたすら神様に向かった。 彼らはヨナの叫びを聞いて直接神に悔い改めた。
神様はヨナにとうごまを備え、ご自身のニネベに対する憐れみの思いを語って、主の御旨まで導かれた。
主は計画が成れば良いと考えられるお方ではなく、12万人を救うときにもひとりの人と細やか関わり、育ててくださるお方であることがヨナ書には書かれている。
ヨナにしてもヨブにしても賜る最上のものは、神様との御交わり、主を知ることの祝福なのだ。
ヨナが神様に選ばれた理由は彼が主を知って居たからである。彼が主を信頼していたからである。だから彼はいつも本音で語って行動にも嘘がなかった。それはとても大切なことであると教えられた。
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