主人と、天と地に別れてはや半年が過ぎた。
つい車の音に「ああ帰って来た」と思ってしまう・・。得意げに「ほらさ」って差し出す獲物は、木瓜の枝だったり、一万円札だったり、小さな竹の子などなど。
いつも私が大きな口を開けて待っているから、何かしら獲物を咥えて帰ってくれた。
まだ、明けやらぬうちに目覚めてそれっきり眠れなくなることがある。
治療のことなど悔やまれて・・、嫌な検査を止めれば良かった。あのときもっとゆっくり主人の気持ちを聞く時間を持てば良かった。後から後から止めどなく思いが吹き出してきて・・逃げるように布団から出る。
私は知って居る。医師や私がどんな間違いを犯そうと、主に知られずに地に落ちる命はないのだってこと。それが普段は私支え、めげることなく生きることが出来るのだけれど・・。
それでも死の棘は、主人の命の終わりまで付き合ってきた私に深く刺さっている。そうして、それを抜きたくない心がある。
何十年も一緒に生きてきたのだから痛みは当然なのだ。当たり前なのだと・・、一心同体の半身もがれて平気なはずがないではないかと・・。
日曜日は雨催いだったので教会には電車で行った。下りた駅の桜が満開だった。
主人の癌が発見されたのは一昨年の春。何となく体調が悪そうな主人の異常を伝えるために、点滴に通っている医院へ一緒に行って伝えたことから、悪性リンパ腫と肝臓癌が発見された。
医大通いの車窓に日に日に桜は賑やかに開花して行き、その華やぎにどれほど慰められたことだろう・・。
私はあのとき必死だった。空しい言葉ではなく、どうすれば主人を励ますことができるのかと・・、しかし、それは杞憂だった。
すべての慰めと力をイエス様が備えていてくださったから、私は主人と並んで車窓に移り変わる季節を味わっていただけ。
彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。(ルカ20:36)
イエス様はこのように言われているから、私は主人の今の様子を知って居る。
それでも私はまだ世に生きていて、未だ主人の人生の続きにいるような者だから・・、
巨人が勝ったこと、勝龍が勝ったこと、梅が咲いても、クマガイソウが沢山芽を出しても一々、「今年はウグイスがよく鳴いているね。」とか、「誕生日にあげた八重桜が咲いたよ」とか報告したくなるのだ。
祭壇なんて無くても、機嫌良く微笑んで居るお気に入りの写真に、「ほら、私の方が上手やろ」と庭木の剪定を威張って見せたりするのだ。
ホタルイカが思いのほか旨かったりすると、食べさせたかったなぁ・・って胸がちくりと痛むのだ。ひとり用に小さなカップに治まった肉を買ったときも、こんなに早くに終わる命なら、嫌いな魚ではなくもっと肉を食べさせてあげれば良かったのにと、私にはほろ苦い後味ばかりが残るのだ。
ひとりで冬を越したよ。今年は雪かきをしてくれる人もないと心配したけれど雪は降らなかった。灯油を買いに行く事も出来ないと心配したけれど、ちゃんと配達して玄関に並べてくれたよ。それでものっぽの電気ヒーターを買ったのは、とても心細かったからなのだ。殆ど使わなかったけれど・・。
白菜も大根もご近所さんが次々にくださって十分すぎるほどだったよ。
ひとりの部屋も今年はそれほど寒くもなく、穏やかに主は守ってくださったから・・実はそんなに困ることはなかったよ。
今も時々テレビなどに腹を立てることがあるけれど、そんな時いつも「怒るな。」というあなたの言葉を自分でつぶやいてしまうよ。
ひとり残されることを心細がったとき、「大丈夫。あいつらが放っておく訳がない。」って・・、そう、息子達はあなたが言ったとおりだった。
そうして一番近くで、ハラハラと気遣って居てくださるお方が主であることを感じている。私たちは天にいても地にいても同じ主と居るのだから、今もとても近い存在であることに変わりないのだ。
雨が止んだら、芽を出したばかりの春菊の様子を見てみよう・・。主人が掃除をしておいたプランターに、先週蒔いた種が小さな双葉を出しているから・・。
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