そうですね、返事というのはちょっと違うかも知れませんが、宿題のように思っていました。「ちゃんと読んでみようって・・」姉妹と話すと、いつもこのように聖書を読みたくなります。
まず、「異火ってなに・・」と思ったのですが、「わたしの命じなかった」なんだって・・それはとても深い意味だと思いました。
良い悪いではなく、「神より出たものではなかった」というそれだけなんですね。
「それだけ」なんて思うことが、そもそも死ぬほどのことなのでしょうね。主の聖さに対して、私たちが主とは異なった判断を差し挟むことの危険・・。
今、イエスさまによって覆われている私たちは、このように直接主に打たれることはないのですが、その分放っておかれ、その異なった火を生涯捧げ続けるという危険があるのではないかと思いました。これ結構恐いです。
うーん、酔っていたのかどうかは本当にわかりませんね。
「会見の天幕にはいって行くときには、あなたがたが死なないように、あなたも、あなたとともにいるあなたの子らも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。
それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため、・・」
と10節でモーセが言っているので・・酔っ払って軽い気持ちで誤ったのではないかと思ったのですが推測でした・・。少なくとも彼らが、ことさらに悪魔的なことをしたわけではないだろうと思ったのです。
「わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす。」
このような主の聖さの前には、イエスさまにあってのみ、私たちが近くいることが出来るのでしょうね。
今、イエスさまにあって呼ぶ「アバ父」は、この主であるのですね。厳粛なことだと思いました。

これはちょっと余談ですが、
イエスさまが『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言われたのは、実際のことではなく悪口ですね、だからそれは事実とは違っていると思います。
パリサイ人や律法学者たちにとっては、イエスさまが罪人と食事をされることが面白くなくて、このように言いふらしたのだと思います。
彼らにはイエスさまの行動は理解出来ず、飲み食いしたくて一緒に居ると受け取りたかったのではないでしょうか・・。
主は、「今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」とも言われているので、ぶどう酒かジュースかを飲まれたことは事実だと思いますが・・、大酒飲みではなかったと思います。
なぜなら、そのような心の飢え渇きは主にはないと思います。
私たちの食べものは御子、イエスさま。その血を飲み、肉を食べるのです!
このことがどういうことか・・日々の中でもっと知りたいし経験したいです。一口ずつ噛みしめてそれをエネルギーにして、それを選択して、深いところまで・・そう「神の深みにまで」と言われている所まで行きたいですね。

日々の生活の中で、霊の祭壇に火を絶やすことなく燃やし続けていたいと祈ります。それは、主を恐れることであり主を慕うこと。
そうして主の権威の下に服して居たいという選択であって、具体的にすべての私の計画は、雲の柱火の柱の導きの中にあり、いつでも変更出来る従順と、何時でも捨てて発てる潔さをもっていたいと願っています。
平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。(Ⅰテサロニケ5:23~24)