それは、良い行いをしようとするまでは気が付かなかったことだけど、しようとすると自分の中にあるもろもろのものが沸き上がるように現出てきて、私は本当は自分のやりたいようにしたく、また何もしない者であることに気付かされた。
人を愛そうと思ってもあれやこれやと事情があって思うようにはならない。それに人を常に愛せるわけでもなく、好きな人もいれば嫌いな人もいる。好きな人には少しは親切に出来ても、嫌いな人に対しては嫌わないようにがんばって、できることならふれ合わないように避けているだけで精一杯、これは無視のようなものでまったく愛などではない。
私の中の「愛」それは自分の身から出たものに対してであり、「喜び、平安」自分の中でのことであり「寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」こうなると全敗。元々私にはないものであり、無いものはどんなにがんばったって出てこない。罪人は自分を愛することで精一杯。だからもめ事があり、共存ではなく競争があり、妬みがあり、争いがあり、戦争をする。罪人とはそう言う者なんだ。その罪人は私。
信仰を得て律法にうめいた。そこには脱出の道はなく、むしろもっと厳しい自分自身の現実を見ることになって、祈っても、祈っても自分の中からは何も良いものが出てこないと言う現実。罪の力を知るばかり。私はイエス様に出会っても何も変わってはいなかった。
そんな絶望の中で、イエス様と共に十字架で死んだというみことばの意味を知った!死体なら何も出来ないのは当たり前であり、今此処にいるのは十字架の死を経てよみがえられた主イエス様に生かされている私。この私はキリストのものであり、キリストの力が私を覆って生かされているということ。
例え、見かけが生まれつきの私のように見えようとも、キリストによって生きる者であり、昔と同じような失敗を繰り返すことがあっても、私は新しく造られた者であり、キリストの力に拠って生きる者とされている、これはみことばの事実。
私は律法から解放され良い行いに対して自由になった。キリストが私の内に律法を全うされる。そのことは、主が計画されて主が備えられたことなので主がさせて下さる。すべては主なる神様の中にあり私ではない。
私は主と何時もいっぱいお話をするけれど、死体のように私のすべての権利を持ってはいない。御真実な主が、良き計画を持ってみこころを私に成就して下さる。今その望みはどんな時にも消えることはない。
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私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:10)