石ころ

サマリヤの女(ヨハネ4章)

 

サマリアを通って行かなければならなかった。(4)
そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。(6)

 

「通って行かなければならなかった」とは強い言葉である。それは一人の女の救いから始まるリバイバルのためであった。「イエスは疲れてただ座っておられた。」すべての始まりとなる井戸の側で待ってくださっていたのだ。

 

一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。(7)

 

この時イエスは渇いておられた。水を求められたのは謙ったふりではない。女がご自身の渇きを満たすことを期待されたのであり、まず女の渇きを癒やすためであった。

 

そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」(9~10)

 

イエスの救いの訪れは罪びとには信じ難いことであり「どうして私に・・」という衝撃の瞬間である。そう、今まさに彼女にその生ける水を持った方が来てくださったのである。

 

の女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。
あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」(11~12)

 

彼女はそれまで生きてきた世の当たり前、言い伝えに拠って生きる世界から、新しく生まれ変わらなければ聴くことのできない、いのちのことばの前に立っていたのだ。

 

イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」(13~15)

 

彼女はこのとき、真っ直ぐに聴いたみことばを受け入れて信じたのである。彼女が激しく渇いていたからである。そうしてまったく新しくされたとき、彼女のうちから生ける水の川が流れ出るようになった。

 

イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」(16~18)

 

イエスは、彼女の「夫はいません」というわずかな言葉を受け入れて、真実をご自分の口から明らかにされたのは、「あなたの傷のすべてを知っています」と言う知らであり、その上で「あなたは本当のことを言いました」と痛みを伴う言葉を掬い取って「義」としてくださったのである。それが罪人に寄り添うイエスの憐みである。

 

彼女には、罪からの完全な解放が働きのためにどうしても必要であった。それが出来るのはイエスだけである。罪なきイエスだけが彼女の罪を負って、その重荷から解放するのである。

 

彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。」
私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」(19~20)

 

今まで彼女が誰彼に訊いても、嘲りだけが返って来たであろう質問である。「お前のような者に関わりのある話ではない」と・・、しかし正し人は主を知ろうとはせず、渇くこともない。

 

五人の夫も教えてはくれなかった真理に、彼女は今チャンスを得て真剣であった。言い伝えによる真偽を曖昧にやり過ごさずに問い続けたのは、イエスには侮りも威圧も無く、愛深い言葉は安心と自由を彼女に与えたからである。

 

イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。(21)

 

イエスが探しておられるのはみことばに渇いている人である。イエスが奥義を解き明かされるのは学者ではなく宗教家でもなく、命が削がれるほどに渇いて疲れている人である。

 

まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(23~24)

 

イエスは彼女に、割り引くことのない言葉で真の礼拝を教えてくださった。そう、イエスだけは誰がどのような問いをしても、身の程知らずな質問をしても、差別したり無視することが無いのだ。イエスが探しておられるのは、そういう幼子の渇きを持った人だからである。

 

女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(25~26)

 

そう、彼女はみことばを聴き続けて真の礼拝したのだ。今彼女は真理の一切を知ったのである。

 

彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。
「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」(28~29)

 

イエスを礼拝した時、渇いていた彼女の霊は満ち足りて、聴いたばかりの生けることばはうちから溢れて来て、我を忘れてサマリヤの町へ走って行きイエスの来訪を叫んだのである。
自分の恥がイエスによって洗われた時、そのすべてを主を知らせるための材料としたのである。

 

うちから溢れるいのちの水を持つ者に古い水瓶が必要だろうか、イエスは彼女が放り出した水瓶をご覧になって満足なさる。そう、この時イエスの渇きが癒やされるのである。

 

さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。
それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。
そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」(39~42)

 

彼女は完全な働きをした。直接みことばを聴くことに導くことこそ伝道者の完全な働きである。そうして「あなたをもう必要とはしない」と聞くとき、彼女の役割は完成されるのである。

4章を通して、イエスがサマリヤを通らなければならなかったことが何であるかを示しているのがこの箇所である。

 

「あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」(35~36)

 

イエスを疲れさせ渇いてのサマリヤの出来事は、それが弟子の参加なき刈り取りであり、ひとりの女に拠る収穫であって、弟子たちは肉の糧のためにイエスを離れていたことにある。

 

「ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。
わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」(37~38)

 

彼らには弟子という誇りがあっただろうけれど、すべてはイエスが備えてくださることであり、真理に渇いて叫ぶ声から始まることである。その叫びに来て癒やすみことばに拠るのである。
神の備えによる刈り取りに与る時もっとも重要なことは、一時も主を離れるべきではないことである。

イエスは女の蒔いた種を皆結実させられた。彼女は主と共に働いてイエスの渇きを満たし、イエスの食べ物となったのである。

 

イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。(34)


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