石ころ

目が不自由な人の癒やし②(ヨハネの福音書9章)

 

人々は、前に目の見えなかったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。(13~14)

 

イエスによる、神の大きな祝福のわざを見た人々がしたことは、律法を用いてイエスを裁くことであった。


神の憐み深い御わざを目にした時に、その救いを素直に喜んで、神をほめたたえることが出来ない理由が律法に拠ることなら、その律法の用い方は的を外している。
どこから間違ってしまったのか、神がどのようなお方であるかを、みことばに静まって聴くべきである。

 

こういうわけで再び、パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えた。(15)

 

彼の言葉は、誰に対しても真実を語ってぶれることは無い。イエスの名を知らなくても、まったく新しくされた事実によって、今、目の前に立っている質問者が見えているのである。これほどの確信はない。

 

すると、パリサイ人のうちのある者たちは、「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」と言った。ほかの者たちは「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか」と言った。そして、彼らの間に分裂が生じた。(16)

 

癒やされた人を目の前にして「何処からか律法を間違えてしまっている」ことを認めない為には、目の前の事実を無視するか、理屈を考え出して誤魔化してしまうか、癒やされた盲人の存在を消してしまうかである。

 

わざを見た人の「罪ある者が盲人の目を開けることなど出来るだろうか」というシンプルな問いは、彼らを見つめてイエスを証する男の事実によって無視することは出来ないのだ。

 

そこで、彼らは再び、目の見えなかった人に言った。「おまえは、あの人についてどう思うか。あの人に目を開けてもらったのだから。」彼は「あの方は預言者です」と答えた。(17)

 

彼の癒しは主から出たことであり、彼はただ一方的な恵みを受けたのである。彼はイエスがキリストであることを「見える」という事実によって知っており、何のてらいも無く神のキリストを証する。

 

キリスト者もイエス・キリストの赦しと癒やしを、自分や祈りによる人により経験していて、罪の重荷から解放しその傷を癒やしてくださったキリストを証をする者である。主の一方的な憐みを経験しているからである。

 

「私はキリストに罪を贖われ赦されている。聖い神の子とされて、永遠のいのちの約束を頂いて生きる者である。『生きることはキリスト死ぬこともまた益です。』」その事実を常々自分自身にも語るのである。

 

ユダヤ人たちはこの人について、目が見えなかったのに見えるようになったことを信じず、ついには、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、
尋ねた。「この人は、あなたがたの息子か。盲目で生まれたとあなたがたが言っている者か。そうだとしたら、どうして今は見えるのか。」(18~19)

 

イエスによる奇跡を否定するために、世に生きている彼の両親を問い詰めて「目は見えていた」という言葉を引き出そうとしている。

宗教家が神の御わざを、力によって捻じ曲げようとすることがあるのだ。神のキリストを知らせるわざを前にして、彼らは自分が何をしているのかわかっていないのである。

 

両親はユダヤ人の間から追放されることを恐れつつも、精一杯の勇気をもって「息子は目が見えなかった」事実を証した。

 

そこで彼らは、目の見えなかったその人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」(24)

 

主の祝福を受けた者には救いの喜びを証するチャンスが備えられている。繰り返し問い詰められる時は、神にたまわった救いを繰り返し語らせて頂くチャンスであり、それこそ彼には喜びである。

 

彼は答えた。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(25)

 

ユダヤ人たちは繰り返しイエスのわざを聞くことで、彼らは真理を見聞きしているのである。
癒やされた男の拠って立っている所はイエスの真実に在って、彼自身の行いに拠ることではないのだ。それゆえ彼にはぶれ様がないのである。

 

彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか。」
彼は答えた。「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」(26~27)

 

そう、これ以上知りたいならイエスの弟子になって知ることである。

その祝福が神より出たことゆえに、誰にどれほど繰り返して詰問されても、どんな時にも、彼は自分自身のあれこれによって揺るがされることはない。

 

彼らは彼をののしって言った。「おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。(28)

 

彼はイエスの憐みを受けたゆえに弟子とされ、モーセを知らぬモーセの弟子たちは、モーセがより頼む神の子を否定して殺そうとしているのである。


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