石ころ

やり繰り(マタイ22章)




 そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにイエスをことばのわなにかけようかと相談した。彼らはその弟子たちを、ヘロデ党の者たちといっしょにイエスのもとにやって、こう言わせた。(マタイ22:15~16)


ことばによって天地を創造された方を、言葉の罠にかけようとしたのは「神も神の力も知らない」宗教者たちであった。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネ1:1~3)


彼らが、言った言葉はすべてイエスさまの真実な姿であった。人がイエスさまをどのようにほめたたえてもそれはすべて事実であり、おもねる言葉とはならないのだ。
彼らがこの言葉を語ったことで、イエスさまがどのような方かを知った上で試したことになる。

もし、彼らが心からこの言葉を語ったのなら、どれほどにか素晴らしい礼拝であったろう・・。盲人が盲人の手引きと成ることはなく、大きな救いとなったことだろう。
しかし彼らはイエスさまに罠を設けた。

「税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
イエスは彼らの悪意を知って言われた。
「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。納め金にするお金をわたしに見せなさい。」
そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。
そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」
彼らは、「カイザルのです」と言った。そこで、イエスは言われた。
「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:17~21)


イエスさまの言葉の知恵に驚嘆しても悔い改めることのない頑なさは、共に集まっては相談し、世の利権を守ろうとするやり繰りなのであろう。
イエスさまは「神の権威は神に返して、救われよ」と教えられた。

 連休に次男と創世記を読んでいて、アブラハムが王を恐れて妻を妹と言ったり、ヤコブが舅のラバンから夜逃げのように去ろうとしたり、神さまに従って行くにも付きまとったやり繰りが、新約の使徒たちには無いことに気付いた。

聖霊の備えは使徒たちを堅く立たせ、真実に語らせ、まっすぐに事を行わせて、主が共におられることの平安を現している。
それゆえ、アナニヤとサッピラの誤魔化しは死を持って償うほどのことであったのだ。
聖霊によって備えられたキリスト者の完全な守り、キリストの熱心によって働く中に、彼らは古いやり繰りを持ち込こんだからである。

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」

どうぞご真実な主が、私たちに成就させてくださいますように。

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