
あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。(マタイ23:8)
一方的に語る役割から解き放つみことばであり、そこに発生する不足を満たす備えのためである。
キリストを頭とする交わりによって、みことばを分かち合い主の備えの中で語るようになるなら、どれほどにか豊かに、また危険からも守られることであろうに。
聞く耳がなければ、主が兄弟の間に備えられた言葉を受け取ることはできない。兄弟でなければ語れない言葉がある。それは主の警告や守りのための備えであるけれど、聞く耳の備えがなければ受け入れることの出来ない言葉だからである。
それは形の問題ではなく、みことばに対する信仰の問題である。常に覚えて備えていなければならない重大なことことである。
それというのも主は、人には取るに足りないと思える者を用いなさるからである。聞き逃すなら主の備えは無駄になり、教会は大きな損失を被ることになるからである。
ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。(マタイ23:37)