石ころ

キリスト者とは何者か② (エペソ1章)

 

祈り 

 

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、

また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。(エペソ1:17~19)

 

「アーメン」
知ったことばを互いに口に出して語り、主をほめたたえつつ、喜びの中に生きる力となりますように。

 

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、

すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけではなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。

また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。(エペソ1:20~23)

 

教会の証明が此処に在る。
イエス・キリストは教会の頭である。からだなるキリスト者は誰でも、互いにイエスの約束のことばを語る、みことばの交わりを持ち、共に永遠の望みに満されている者である。

 

教会は、イエス・キリストに在って生きており、皆キリストのからだ各器官である。
その交わりは永遠のものであり、今の世だけではなく千年王国に在っても、新天新地に在っても共に居て、イエス・キリストと共に働く望みを分かち合う者である。

 

世の状況を語る言葉は、より多く語られるみことばに飲み込まれ、日々イエス・キリストを味わう中で、生ける神のことばが充満しているところである。

 

時にはペテロやパウロのように、牢の中での賛美のようでもあっても、今、私たちはみことばにより、獄屋も開く自由を持っていることを知っている者である。


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