主はモーセにこう告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。わたしはあなたがたの神、主である。
あなたがたは、自分たちが住んでいたエジプトの地の風習をまねてはならない。また、わたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地の風習をまねてはならない。彼らの掟に従って歩んではならない。(1~3)
カナンの地にはあらゆる性の乱れがあり、人々は欲望のままに振る舞っていた。その地に神を恐れる者がいなかったからだ。彼らの掟とは「すべての自由を尊重すること」だろう。
性が乱れて神の祝福が汚されてしまったのは、神の愛から離れた結果である。魂の飢え渇きによって、愛が存在しない貪るだけの性となり、神の愛で満たされない心の空っぽを、どうしても埋めることが出来ずに病み、罪にまみれて歪んでしまった結果である。
それを完全に癒やすことができるのは、聖霊の導きによって知るキリストの愛である。
「天地を創造された神が、ひとり子を十字架に遣わして、罪も汚れも飢えも渇きも、神を離れた悲惨のすべてあがなってくださった。」この事実を魂の深いところで悟るのである。生きて働くみことばを通して聖霊が教えてくださることである。
どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ3:16~19)
みことばが心に染み込むように刻まれて、すべてが新しくされたことを知ると、キリストの平安に満たされる。
そう、すべての飢え渇きは、神を離れて迷子になった心細さにより、平安を失った所から出て来るのである。
霊の目が癒やされて、みことばの約束をそのままに受け取る時、全身がキリストの愛に浸される。そのとき魂の痛みが消えてゆき、囚われていた罪の思いから解放されて行くのだ。
執拗な悪魔が自分のものを取り戻そうと、内から外から脅し誘惑することがあっても、相手になって戦う必要はなく、キリストのうちに安息しておれば良いのである。
神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。(ローマ8:14~16)
神が造られたままの健やかな霊と魂で、愛と平安に満たされ主を喜んでおれば良いのである。それは神が準備してくださった宴会であり、欲望の宴会を忘れ去った者が留まる平安の喜びである。
医学や努力で癒やせない魂の傷も、造り主なる神に霊、魂、体のためのすべての備えがある。全能の造り主を信頼してみことばにより頼む者を、瞬時に真っ新に出来るお方である。御子をたまわるほどに愛してくださっているからである。
パウロが言うようにうちにいる罪のしわざには、自分で戦うものではなく、主にたまわったキリストの中に逃げ込むことである。
みことばに素直に聴き従って罪を罪と認め、キリストの十字架に感謝に溢れてひれ伏す時に与えられるものは、十字架で勝ち取ってくださった罪からの完全な勝利である。
神が用意してくださったものは、弱さの中に完全に働く神の力である。罪は猛々しく戦いを挑むが、キリスト者は主に感謝にあふれてひれ伏すだけである。
罪はすべてキリストに拠って処理されている。罪は意識すればするほど支配を強めるが、私たちは永遠までキリストに安息しているのである。