
人が初めて聖書に出会って祈るようになった時には、神様はその祈りを通して誰にでも、平等にご自身を現してくださる。
このことは、イエスさまを伝えた時に経験したことである。祈りは聞き入れられて悩みは取り去られ祝福されるのを見た来た。
ただ、人はその願いが叶った事に満足すると、神頼みの必要が無くなってしまうのである。その人々の神とは、目の前の悩みを解決するためにだけ必要だったのだ。
イエスさまに願って十人の病人が癒されても、感謝をするために戻って来たのは一人であった。しかし、癒された事だけで終わったら、何百回癒されても死という滅びが待っている。
それは、その人の内に癒し主なる神さまに繋ぐ、キリストの信仰が備えられていないからである。
しかし神のわざを通して、イエスさまのお言葉が真実であることに気付いた者は、叶えられた出来事よりも、願いを叶えてくださった方、また生きて働くみことばに対して目が開かれて行くようになる。
それは内におられる聖霊の導によることである。
その人は、良い事も悪い事もすべてを通して主を見上げるようになり、すべてのことに置いてみことばの保証を求めるようになる。
つまり神様とのコミュニケーションを求めるようになるのだ。
神様に選ばれた者は目の付けどころが違うのである。故もなく賜る祝福に驚き、感謝をもって主を見上げるようになり、すべてを内に居られる三位一体の神様との交わりとするようになる。
それによって、平安が持ち去られることのない神の神殿として堅く建てられて行くのだ。
最上のたまわりものは平安である。証しするものは世には無い平安である。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなた方を任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなた方の実が残るためであり、また、あなた方がわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなた方にお与えになるためです。(ヨハネ15:16)