
そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。(マタイ25:1.5)
花婿の来るのが遅れるのは祈りに拠ることである。イエスさまは再び来てくださる。「主よ。来てください」という祈りは、「主よ。もう少し待ってください」という言葉と共にある。共に御救いに預かりたい人があるのだ。だから・・もう少し・・と。
花婿なるキリストの来られるのは、肉は何も出来ない眠りの中に在る夜である。神は霊だから霊の備えは霊の中にある。肉には眠ることが必要だが、霊は肉が眠って居ても起きていてもすべてに備えている。キリストの十字架の御救いによって、目覚めた霊は眠ることがない。
花嫁は婚礼によって花婿の打ち傷を見る。救いのために支払われたものの大きさに、花嫁は己が相応しい者ではないことを知って耐えられなくなる。
ただ、彼女の持って居る油はその傷みを覆って癒す。花嫁は絶えず覆う聖霊の油によって安息するのである。
油の備えのない娘に、天の戸は直ぐに閉じられた。
油は、みこころを行いたい願いの中でただで買うことができる。先祖以来の言い伝えには拠らず、主に在って成したい願いにたまわる助けである。
そうして、すべての願いを主に委ねて「主よ。来てください。」と心から祈ることができる。