石ころ

「主よ。来てください。」② (マタイ25章)



 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。(マタイ25:14~15)


 タラントは能力に応じて与えられるとある。能力は造り主が備えられたものであり、人がその多少を問われることはない。主はその個性にある弱さに対しては、信頼関係のうちに助けを備えてくださってある。

しかし主を知ろうともせずに恐れる者には、どのような備えも助けとはならず、関係を拒絶された時は助けようもないのだ。信じて一歩を踏み出していれば発見できる備えも、踏み出さない者の信仰は育てようもなく、その機会が失われているのである。

 タラントを用いない者は、不信仰者共通の主人を責める言葉を持っている。
働いたしもべの「ご覧下さい」という言葉は、主人の喜びを喜びとする言葉である。そのとき主人は最大限の評価をもって、働きの量にはよらず喜ばれるのである。

主は、信仰者の人生にそれぞれの能力に応じたサプライズを備えてくださり、共に喜ぶ舞台設定を準備していてくださる。
だから、5タラントの者も2タラントの者も同じように成功するのである。そもそも信仰者の成功は「やらせ」のようなものである。主は母が子を育てるように、喜びを経験さて育ててくださるお方である。

それは深い信頼関係の中で、喜びつつ神と共に働く者に成長させて下さるためである。タラントを用いないことは、その良いご計画を土に埋めたのである。主は喜びを共有するために帰って来られる。
心を知ろうともせず、主から身を守ろうとすることほど悲しいことは無い。

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