イエスさまのことを人々はこそこそと噂をしていた。それは彼らにとって大きなことであったけれど、公然と語る者はひとりも居なかったとある。
今、イエスさまを信仰する多くの者が、自由にイエスさまを語っているかと言えば、殆ど語れないでいる。
この現在の日本に置いてなぜ語れないのだろう・・何を恐れるのだろう・・。語ることを押さえつけるサタンの仕組み、人に働く肉の力をそこに感じる。
7:14 しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。
7:15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」
学校で正規に学んでも居ない者が・・そのような圧力は、そう、イエスさまの昔から同じである。人由来のものを、人の言い伝えを語るのであれば、サタンはその邪魔をすることはないであろうが・・。
7:16 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。
7:17 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。
主イエスによって、主から出た言葉を語る者はその言葉の出所をよく知っている。イエスさまに拠って語る者はイエスさまの言葉を語る。それはイエスさまが御父によって語るように御父を語っている。
7:46 役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
この役人達は、イエスさまのことばを偏見を持つことなく聞いていたのだろう。
この疑問こそが救いをたぐり寄せる糸口であり、イエスさまの導きを受けるための入り口である。
初めてのことばに、「これはなんのことだろう・・」とイエスさまに問い続けるなら、甘い愛の言葉を聞くことになる。
イエスさまは彼らに答えられている。今の私たちにも届けと叫ばれているのだ。
7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
そう、これこそが主の完全な備えである。聖霊が豊かに内にみことばを解き明かし、もつれた糸を解きほぐして、目を開いて下さる備えは誰にも平等である。イエスさまが言われるのである「だれでも」と・・。
ひとり一人に日々新しく語りかけるみことばを、人の言い伝えにしてしまってはならない。
人手には拠らない純粋なみことばの乳を、誰でも飲んで成長することができる。
文字を読むだけでは経験出来ない。今、この現実の中でイエスのことばが力を持って働くのである。
その事実を互いに分かち合い、また、公然とそのみことばの力を語ることは、救いを得た者イエスさまを知る者の責任である。御子の肉が裂かれ、血が流され、いのちが支払われたことばなのだから・・。
聖書は読めば読むほどに、イエスさまのおことばは今の私たちに向かって話されているのではないかと思う。主は永遠を見て居られたのだと・・。
十字架を知っているからこそ理解出来ることばがあり、この当時の人々にはあまりにもハードルが高いのではないかと同情してしまう・・。
当時の彼らの不幸は目が見えて、完全な人と成られたイエスさまのお姿が見えた故に、それが大きな躓きになっている。見ることによって肉は激しく働くから・・。今も人は見えることによって「知っている」と躓く。
ヨハネは深いと思う・・、それは彼が常にイエスさまに近く居て、実に十字架の側にもいて、イエスさまからマリヤを委ねられるほどに愛されていたから・・そう、それこそヨハネ自身が信じていた通りの愛の答。
彼は自分のことを「イエスの愛された弟子」と臆面もなく告白している。
イエスさまの愛は人の愛のように限界も分け隔てもないけれど、その愛をどれほど受けるかは、その人の選択によることである。
彼はイエスさまの豊かな愛を、初めから終わりまで信じて疑うことはなかったのだろう・・。
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