神による詳細な罪の定めは、創造主による被造物取り扱い説明書、罪に対する処方箋のようである。
神は、人が罪に汚染され間違いを犯す者であり、過ちに満ちた者であることをご存じゆえに、一人でも多く生かすための処方をモーセに細やかに伝えられた。
それは、罪に汚染された世を生きるための備えであり、神と人の平和を守るための導きであり、造り主の権威によって愛する者を治めて祝福に与らせるためである。
「所有をめぐるすべての違反行為に関しては、それが、牛、ろば、羊、上着、またいかなる紛失物についてであれ、一方が『これは自分のものだ』と言うなら、 その双方の言い分を神の前に持ち出さなければならない。そして、神が有罪と宣告した者は、それを二倍にして相手に償わなければならない。」(9)
神の民を裁く方は神である。イスラエルの子らはすべてのことを神の前に誓い、神の裁きによって罪の宣告を受ける。それはアブラハムの末という救いの約束に在って無実を証するのであり、彼らはいのちをもって答えなければならないのである。
「盗むな」に対する状況に応じて与えられる罰や、性的な問題の罰や責任の取り方、偶像礼拝に対する罰について。
寄留者への思いやり、やもめやみなしごへの思いやり。貧しい者への思いやり。
神をのろうことの戒め、捧げものに対する規定、汚れた食べ物に対する戒め等々・・。
それは日常の一切の事柄に対して、神が関わってくださるということである。罪を罰することで神の善悪の基準をわきまえて、互いに平和の中で生きるための備えである。
しかしそれらは、真摯に神の完全を求める人々に渇きを起こさせて、イエス・キリストへと導くための処方であった。
今主は、私たちの卑近な日常にも関わっていてくださり、命のためのすべての必要を心配して備えて下さっている。
不当な扱いに叫ぶ声も届いていて、最善のタイミングで介入してくださる。信頼して待っていた者に生きて働く神の力を見せてくださるのは、私たちが喜びの声をあげて御名をほめたたえるためである。
キリスト者はこの世の基準の中で暮らしてはいても、この世の者ではなく神の国に国籍を持つものとして、御子をたまわるほどの憐みに満ちたさばきに信頼して安息する者である。