年に三度、わたしのために祭りを行わなければならない。(14)
神が祭りを命じなければならないのは、選びの民がエジプトを脱出するときに経験した御わざを忘れてしまい、共に居られる方が、どれほどに力在る方かを覚えて信頼することがないからである。
主を忘れた民は、備えてくださった地カナンに入ることはなく荒野で死んだ。生き残ったのは主に信頼していたカレブとヨシュアの二人と、憐みに拠る彼らの子孫だけであったのだ。
神がどのようなお方であるか忘れては安息に入ることはなく、常に恐れに引き回され、明日を思い煩い続けることになる。それゆえに祭りを命じて、神の力あるわざをを子孫に伝えるための祭りを命じられたのである。
個々の家にもそれぞれの祝日というものがある。家族の誕生日や、結婚記念日、また、昇天記念日もあれば、家族だけが覚えて祝う日もあろう。それはすべて愛から出ていることであり、互いが大切であることを確認する日でもある。
キリスト者にとっては、それらすべての上に在る神の憐みに感謝する日となり、折々の主の奇しい助けや、恵みを語り伝えて主に安らぐのである。
種なしパンの祭りを守らなければならない。 わたしが命じたとおり、 アビブの月の定められた時に、 七日間、 種なしパンを食べなければならない。 それは、 その月にあなたがエジプトを出たからである。 何も持たずにわたしの前に出てはならない。(15)
「過越しの祭」はエジプトで奴隷であった事実を覚えて、神によるエジプト脱出の記憶を新たにすることであり、二度と何ものの奴隷にもならないために、子孫に力ある主のわざを伝える時である。
神の家族が子孫に、みことばと共に神の憐れみを受けた日のことを伝えるのは、神の祝福を相続するための手続きである。
力ある神の守りの中で、子孫に滅びることのないいのちを得させるためであり、再びおめおめと敵の虜となって、世の奴隷となる憂き目を見ないためである。
神の前に捧げものを持って出ることは、いのちの主への愛を告白する行為であり、それは神に愛されていることを知っているからである。
また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂を献げる刈り入れの祭りと、年の終わりに、あなたの勤労の実を畑から取り入れるときの収穫祭を行わなければならない。
年に三度、男子はみな、あなたの主、主の前に出なければならない。(16~17)
「五旬節」についてはカナンに入ってからの農耕において、神を覚えて祝福を受けるための導きである。
神のご計画は語られた時に成ることであり、この戒めを聞いたときにイスラエルはカナンの地を得たのである。もろもろの背きの罪があったとしても・・。
男子が主の御前に出て祈る時、選びの民の一員であることを明確に認識するのだろう。主による守りを数えつつ・・。
わたしへのいけにえの血を、種入りのパンと一緒に献げてはならない。また、わたしの祭りのための脂肪を朝まで残しておいてはならない。(18)
パン種は罪を現わしていて膨らませるものである。罪はそれを人の思いの中で温めるとき、膨らみ続けるものである。
もっとも聖い血はキリストの十字架の血である。その御血を受けて救われた後に、パン種のような自分の計画を持って、主と居ることは良くないことである。
神に捧げると告白したものを残すことには、アナニヤとサッピラを思わせる。それは全焼のいけにえとするべきものではなかったのか・・。聖霊をあなどることは赦されない。
あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。あなたは子やぎをその母の乳で煮てはならない。(19)
愛されていることを知っているから最上のものを捧げるのである。神がそれを命じられるのは、愛は応答するものだからである。
今、キリストの御救いに与った者には分かりやすいことである。神はその愛するひとり子を私たちに無条件でたまわった。これ以上の愛の証明が他にあろうか・・。愛は応答によって、いよいよ深い信頼関係が築かれて行くのだ。
母やぎの乳は子やぎを育てるためのものである。それをもって料理することは神の感性に合わないのだ。