イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。(ヨハネ6:5~6)
ピリポに解決できないことは初めからご存じのイエス様が、なぜ人を試されるのだろうと思ったことがあった。
私たちは困難な問題に直面させられることがある。その時、私たちには正しい答えを出すことはできない。それは私たちが主の御力を知らないからである。
だから現状を答えるしかない。賢い人から借りてきた答えではなく、恐れてたじろぐのでもなく、ピリポやアンデレのように自分の言葉で答える。
そのとき主は、ご自身を通して御父のわざを見せてくださる。パンの奇跡はピリポやアンデレには、他の弟子とは違った経験になっただろう。
主が問題を個人的に出してくださるとき、そのことを通して神の御力を私の経験とすることができるのだ。
パンは欲しいだけ与えられる。十分食べたとき、弟子には「余ったパン切れを一つもむだに捨てないように集めなさい」と言われた。
みことばのパンを味わって「わかった」と、あるいは「今日のノルマは終わった」と聖書を閉じる。
しかし主は、弟子ならなをみことばを無駄に捨てないように、もっと忍耐強く、丁寧に集めなさいと私に諭されたように思えた。
神様が「これはわたしの愛する子」と言われた御子イエス様の御体は、まことのいのちのパン、それは無残に十字架で裂かれ私たちに分け与えられた。そのパンは永遠のいのちを保つまことの食べ物。
十字架で流された血は罪のきよめのためのまことの飲み物。その事実をもっと丁寧に、忍耐強く、自分のこととするためにみことばを拾い集めなさいと教えられた。
群衆はイエス様のわざを、肉を養うパンと見て王にしようとした。人々が王を立てるのは自分たちの欲望を満たするためである。
それゆえサウルは祭司サムエルを待つ事ができなかったのだ。人に立てられたら人を恐れなければならないからである。
しかし主は、私たちの人生の目的をこう言われる。
なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。
すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(ヨハネ6:27~29)
それで、人々はイエス様を信じることが出来るのか・・。
しかし、あれはヨセフの子ではないか・・というつぶやきが起こる。今も単に「歴史上の偉人」となる。
本当に誰が救われるのか・・、私たちはイエス・キリストを証明して、信仰を説得することはできない。ただ、聖書をそのまま話し、自分の身に起こったことを伝えるだけである。
「父が引き寄せられないかぎり、誰もわたしのところに来ることはできません」
「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしは霊であり、いのちです」と主は言われる。
今、永遠のいのちに至る言葉を持っていることは、驚くべき神のわざ奇跡なのだ。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。(ヨハネ6:54~56)新共同訳
イエス様がいつも私の内に居られる。私もいつもイエス様の内に居るのである。
試みの中で渇いているときも、みわざに満腹しているときも・・。
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