
「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」
イエスさまは彼らに問われます。
パリサイ人たちは、「安息日には何もしてはならない。」と自分たちの言い伝えによる信仰姿勢を決して崩そうとはしませんでした。
イエスさまは此処でも手の萎えた人を癒して、神のわざを現しご自身を証されましたが彼らは見ても信じません。人は、奇跡を見たからといってそれによって信じることはないのだと思います。
「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。
しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:25~27)
彼らは、神様の備えられた安息日の真意を、自分たちの都合に合わせてねじ曲げていました。彼らの心のかたくなさや、罪がイエスさまによってあからさまになったとき、神の御子を殺しても自分たちの言い伝えを守ろうとしました。
彼らが行き着く所は永遠の滅びです。それは、神様のことばよりも人の言い伝えの方を選んだからです。
神様はこう言われます。
「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」(マタイ9:13)
安息日だからと、苦しんでいる人を生け贄のように見捨て、自分たちは決まりを守る立派な信仰を持っているんだと威張ることなど神様のご性質にはあり得ないことです。
愛の神は、私たちをいけにえとすることは好まれませんでしたが、御子を私たちの身代わりとして処罰されたのです。
「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(Ⅰヨハネ4:8)
大勢の人々がイエスさまに押し寄せてきました。
「イエスがはいって行かれると、村でも町でもでも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。」(マルコ6:56)
イエスさまは彼らの信仰を問うこともなく、憐れみによってみな癒して下さいました。その中には良い人も悪い人も居たでしょう。
神様は義を問われます。罪や悪を見過ごすことは決してできないお方です。でも、イエスさまはみなを癒されたのです。
どうしてそんなことが出来るのでしょうか、それはご自身が十字架を負うことによって、義を成り立たせることができるからです。神の愛には御子イエスの犠牲がともなっています。十字架抜きで愛することはありえないのです。
人はすべて罪人ですから、どんなに崇高な行いによっても神の義の助けになることはありえません。ただひとり全く罪の無いイエス・キリストの身代わりの死、十字架によってのみ成立することです。
私たちに出来る事は、十字架の完全な救いに身を寄せることのみです。
自分では何も出来ないくらいに弱くされ、イエスさまの助けを求めて寝かせられた時、良い人も悪い人も全部を救う主の十字架によって救われたのです。私たちが救われたのは、ただ、ただ、イエスさまの一方的な憐れみに拠るのです。
もし、何か良い行いが出来たとしたら、イエスさまにあって私たちのうちにあらかじめ備えて下さったことによるのです。それによって主への感謝を深めるためです。
誇るものも自分の力で守るものも、なにひとつないことをわきまえることができますように。パリサイ人のわなに嵌らないために・・。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:10)
写真は、「称名の滝」です。
撮影の後たちまち霧の中に消えてしまったそうです。細い方はハンノキ滝、二本の滝が見られるチャンスは難しいようです。
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