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石ころ

火曜日のために (マルコ2章:14から)


イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。
すると彼は立ち上がって従った。それからイエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」(マルコ2:14~16)


イエスさまが、社会から職業的な差別を受けていたアルパヨの子レビ(マタイ)を召されて、彼の家で取税人や罪人たちとの宴会が始まりました。

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3:20)

イエスさまに出会った人は、イエスさまを自分の一番奥まった部屋に招いて、すべての知り合いを呼んで宴会をしたいのです。
みんなにイエスさまを紹介をして、救い主が来て下さったことを共に喜びたいのです。

 人は招かれても相手を見て出席するかどうか判断しますが、イエスさまは誰の所にでも来て下さいます。私たちが心の戸を開くなら、其処に居る者がたとえ罪人ばかりであったとしても、まるで家族のように一緒に食事をして下さるお方です。
医者として、罪の治療を要する者と一緒に居て「あなたの罪は赦された」と宣言して下さるお方です。

事実人は誰であっても、イエスさまの十字架によって、その罪を負って頂かない限り皆罪人、それも永遠に滅びるべき死刑囚なのです。
自分を正しいと思っている人たちは、罪の認識がない鈍感な人です。イエスさまに出会って初めて、自分の罪の深さに気が付くようになるのですが・・。

このようなイエスさまの振る舞いは、
「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。」
とパリサイ人や律法学者、自分は正しいと思っている人たちの非難の的になりました。

彼らは、「なぜ罪人と食事をするのか、なぜ断食をしないのか、また、安息日にしてはならないことをなぜするのか」とイエスさまを責め続けます。
イエスさまの権威を彼らは見聞きしているのですから、彼らは愛に目覚めてイエスさまに倣うべきなのですが、神の御子に、人の言い伝えによる正しさを押しつけ続けたのです。

「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)このように神は言われます。私たちが何をしたかということではなく、その時の心の内をご存じなのです。
御子を招いての祝宴を軽蔑と差別によって喜べない人が、断食をしても神を喜ばせることはありません。
自分の義のために、断食や献金をしてもなんの意味もありません。

「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Ⅰコリント13:3)

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